ヴァーツラフ・スメターチェク
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ヴァーツラフ・スメターチェク Václav Smetáček |
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1931年、プラハ木管五重奏団のメンバーと(左端がスメターチェク)
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基本情報 | |
生誕 | 1906年9月30日![]() ブルノ |
出身地 | ![]() |
死没 | 1986年2月18日(79歳没)![]() |
学歴 | プラハ大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者、オーボエ奏者、作曲家 |
担当楽器 | オーボエ |
ヴァーツラフ・スメターチェク(Václav Smetáček, 1906年9月30日 - 1986年2月18日)は、チェコの指揮者・オーボエ奏者・作曲家。
経歴
プラハで指揮法をメトド・ドレジルとパヴェル・ジェデチェクに師事するかたわら、プラハ大学で音楽学・美学・哲学を修める。プラハ木管五重奏団の創設メンバーであり、その演奏活動のために編曲や新作の提供もこなした。1930年から1933年までチェコ・フィルハーモニー管弦楽団に入団し、1934年から1943年までチェコ放送局の指揮者ならびに編集者を務めた。1945年からプラハ大学やプラハ芸術アカデミーの教員となる。
三十年間常任指揮者を務めたプラハ交響楽団では、いくつかの改革に着手した。古い時代の作品と、20世紀音楽の両方にレパートリーを押し広げたことはその一つであり、モーツァルトやケルビーニ、レイハ、ドヴォルジャーク、フェルステル、マルティヌー、オルフのほかに、ミロスラフ・カベラーツやルーボス・フィシェルの管弦楽曲がプラハ交響楽団のレパートリーに採用された。1938年からは国外でも演奏し、ヨーロッパや海外の音楽の中心地からも招待を受けるようになった。もっぱらコンサートの指揮者であったといえるが、オペラについても熟知していた。その幅広い活躍から「チェコのカラヤン」と称されたとの記載がCD解説にある。
スメターチェクを高く評価している音楽評論家の宇野功芳は、「二、三回しか来日していないが来るたびに大感動した指揮者」「チェコ・フィルの楽員から『音楽的にはノイマンよりスメターチェクのほうが断然上なのだが、ノイマンの政治力がすごいのでスメターチェクが目立たないでいる』と聞いた」と語っている(宇野功芳「宇野功芳の『クラシックの聴き方』」音楽之友社、P109~110)。
外部リンク
- 『音響創造 ―電子の技術―』(1961年) - 松下電器産業(現・パナソニック)が企画した短編映画。再生開始27分56秒後以降は当時の松下電器による製品群の宣伝領域《トレーラー;同領域冒頭に趣旨説明あり》。当該映画作品の本編終盤部(再生開始21分55秒後以降)に、当該作品リリースの前年に仙台市内にて開業したばかりの電力ビルに入る電力ホールに納められた松下の音響機器類の紹介とともに、デモ演奏として同ホールに於ける、スメターチェク指揮東響による『新世界より』終楽章(抜粋)演奏も収録されている《実際スメターチェクは当該映画作品リリース当年に来日し、東響を客演指揮して東京でも公演を行っている》。製作者は東京シネマ。『科学映像館』より
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