ヴァシリー・ペロフとは? わかりやすく解説

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ヴァシリー・ペロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/02 08:37 UTC 版)

ヴァシリー・ペロフ
自画像
生誕 (1834-01-02) 1834年1月2日
ロシア帝国トボリスク
死没1882年6月10日(1882-06-10)(48歳)
ロシア帝国モスクワ
教育モスクワ絵画彫刻建築学校

ヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ: Васи́лий Григо́рьевич Перо́в, : Vasilii Grigor'evich Perov1834年1月2日ユリウス暦1833年12月21日〉 - 1882年6月10日〈ユリウス暦1833年5月29日〉)は、ロシア画家[1]。ロシア写実主義運動の中心人物の一人であり、移動展覧会協会の創設メンバーである。

「ヴァシーリー」は「ワシーリー」[2]、「ペロフ」は「ペローフ」[1]とも表記される。

経歴

ロシア帝国トボリスクで、検察官の父親の非嫡出子として誕生した[3]。両親はヴァシーリーの出生後すぐに結婚したが、父親の姓と男爵の称号を継承する法的根拠がなかったため、出生時の名は名づけ親の姓を取ってヴァシーリー・グリゴリエヴィチ・ヴァシリエフとなった。彼にカリグラフィーを教えた教師は、その卓越した腕前から彼に「筆」«перо» にあやかったペロフというニックネームを授け[3]、彼は後にこれを正式に姓とした。

1846年から1849年にかけて、アルザマスにあるアレクサンダルストウピン美術学校に通った。1853年に名門モスクワ絵画彫刻建築学校に入学、主にセルゲイ・ザルヤンコのもとで学ぶ。1856年、帝国美術アカデミーで発表したスケッチで小銀勲章を受賞した。

1861年に絵画「村の説教」で大金勲章を受賞、海外旅行の給費金を受け取った。1862年にエレーナと結婚した。同年に西欧諸国へと旅発ち、ドイツのベルリンドレスデンデュッセルドルフといった数々の都市を訪問、その後、フランスのパリに向かった。この旅行中、彼はヨーロッパの街の生活場面等をたくさん描いた。1864年の秋にモスクワに戻り、妻の叔父の家に住んだ。1866年、アカデミー会員の称号を受け、1871年にモスクワ美術学校の教授になった。同時期に移動派に参加した。

1882年、結核によって亡くなり、亡骸はモスクワにあるドンスコイ墓地に埋葬された。

主な作品

脚注

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