ワーデル・カゼアとは? わかりやすく解説

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ワーデル・カゼア

(ワーデル・ケゼア から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/16 07:34 UTC 版)

ワーデル・カゼア
ゲイトマウス・ブラウン(右)とワーデル・カゼア
(1997年、ニューオーリンズのタワー・レコードにて)
基本情報
出生名 Wardell Quezergue
生誕 (1930-03-12) 1930年3月12日
出身地 米国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 (2011-09-06) 2011年9月6日(81歳没)
ジャンル ジャズR&Bブルース
職業 プロデューサー、編曲者、指揮者、バンドリーダー
活動期間 1950年 - 2011年
レーベル ノーラ・レコード、他

ワーデル・カゼアWardell Quezergue, 1930年3月12日 - 2011年9月6日)は、米国作曲家編曲者プロデューサー指揮者、バンドリーダー。ニューオーリンズミュージシャンの間で、「クレオールベートーベン」として知られた。

来歴

1940年代後半、デイヴ・バーソロミュー楽団で活動。続く朝鮮戦争における軍隊所属ミュージシャンとしての経歴を経て、50年代半ばにロイヤル・デュークス・オヴ・リズムで、自身の活動を開始する。また、彼はプロフェッサー・ロングヘアファッツ・ドミノら、ニューオーリンズの大物ミュージシャン達の編曲者としても活躍するようになった。

1963年ノーラ・レコードを設立[1]。同レーベルからは、ロバート・パーカーの「Barefootin'」がR&Bチャート2位のヒットを記録した他、エディー・ボーウィリー・ティー、スモーキー・ジョンソンらがレコードをリリースした。のちにカゼアはキング・フロイドの「Groove Me」、ジーン・ナイトの「ミスター・ビッグ・スタッフ」などをレコーディングする。スタックスアトランティックらの大手レーベルが、売れる見込みがないとして興味を示さなかったのを受け、カゼアはこれらの曲を当時経営難だったマラコへ持ち込み、同レーベルから全国的ヒットとなったのだった。

これらの実績から、70年代にはカゼアの編曲者として評価は高まり、またマラコ・スタジオも人気のスタジオとなった。同スタジオを使ったアーティストには、ポール・サイモンウィリー・ネルソンB.B.キングらがいる。

カゼアは、ドクター・ジョン1992年グラミー賞受賞作品、「Going Back To New Orleans」のプロデューサー、編曲者を務めた。既にクラシック音楽の作曲家、指揮者としての評価も得ていた彼だが、2000年には自身の朝鮮戦争における経験を基にした作品、「A Creole Mass」を発表した[2]

2005年、法律上の盲人となっていた彼はハリケーン・カトリーナで被災し、財産のほとんどを失ってしまった[3]。翌年の7月30日、ドクター・ジョンが呼びかけ、R.E.M.マイク・ミルズが支援する形で、カゼアへのベネフィット・コンサートがシカゴで開催された[4]

2011年9月6日、うっ血性心不全のため死去[5]。 81歳没。

出典

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