ワイナ・ダガでの敗戦
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「アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー」の記事における「ワイナ・ダガでの敗戦」の解説
ポルトガル軍の生き残りはエチオピア軍と合流し、さらにポルトガルからの援軍も加わった。1543年2月21日、ポルトガル・エチオピア連合軍9000、アフマド軍1万5千でワイナ・ダガの戦い(英語版)が行われ、アフマド軍は敗北した。この中でアフマドも戦死した。アフマドの戦死により、アフマド軍は崩壊した。 アフマドの妻バティ・デル・ワムバラは残った兵と共に戦場から逃げ、本拠地のハラールに戻った。バティは体勢を立て直すため、甥のヌル・イブン・ムジャヒド(英語版)と結婚し、軍を再編した。しかしすでに反撃するだけの力は残っていなかった。 アフマドの侵攻は、その後長くエチオピアで語り継がれた。20世紀のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世も回想録の中で、幼い頃にグラン(アフマド)がエチオピアの町や教会を破壊したとの話を聞いたと記している。
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