モルダビア公国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:23 UTC 版)
1343年にモンゴル人に敗北した後、この地はモルダビア公国に編入された。この国は1392年までにチェタテアアルバ (Cetatea Albă) とチリア (Chilia) の要塞に支配権を確立した。東側の国境はドニエストル川である。 14世紀後半にこの地の南部が数十年の間ワラキアの領土となった。ワラキアの代表的支配者がバサラブ (Basarab) と呼ばれ現在のこの地の名前の元となっている。 15世紀にこの地域のほとんどがモルダビア公国の領土となった。シュテファン大公が支配していた1457年から1504年までの約50年の間に彼はオスマン帝国やタタール人などから32回も勝利をあげ、敗北はたった2回であった。勝利の後に彼は戦場の近くにキリスト教の修道院や教会を建てた。このような戦場、教会、要塞都市の多くはベッサラビアにある。 1484年にトルコ人が侵入し、チリア (Chilia) とチェタテアアルバ (Cetatea Albă)を攻略し、ベッサラビア南部の海岸線沿いを2地域に分けてオスマン帝国に併合した。1538年にモルダビア公国の一部分だったベッサラビアはオスマン帝国の影響下に置かれることになる。 1711年から1812年にかけてロシア、オスマン帝国、オーストリア間の戦争においてロシアはこの地を5回占領した。1820年から1846年にかけて、ガガウズ人が長年のオスマン帝国の圧政に耐えかねてドナウ経由でロシアへ移住、ベッサラビア南部に定住した。ノガイ・オルダのテュルク語族もまた16世紀から18世紀にかけてブジャク(ベッサラビア南部)に住み着いた。しかし1812年までにほとんどが追い出されてしまった。
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