ポンピドゥーの死とジスカール・デスタンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:29 UTC 版)
「フランス第五共和政」の記事における「ポンピドゥーの死とジスカール・デスタンの時代」の解説
1974年、ポンピドゥーが死去する。また、この年に発生した第1次石油危機による経済不況を受け、「栄光の三十年」も終わりを告げる。この石油危機により、フランスは物価上昇と失業者の増大に苦しんだ。 ポンピドゥーの死にともない行われた選挙によって、ジスカール・デスタンが大統領に選出される。ジスカール・デスタンはまず、中絶を合法化するヴェイユ法を制定した。 ジスカール・デスタンの外交は「新大西洋主義」と呼ばれ、それまでのド・ゴール主義的な外交とは異なり、対米協調的な路線であった。 1978年、第2次石油危機による石油価格の高騰を受け、その対策として価格自由化政策を実行するも、サービス業の値上げを引き起こした。 1979年、フランスの中央アフリカ帝国に対する帝政打倒を目的とした軍事作戦(バラクーダ作戦)が行われ、中央アフリカは帝政が廃止され、共和国となる。 1980年、ゴシップ誌『カナールアンシェネ』によって、ジスカール・デスタンが中央アフリカ共和国のボカサ大統領からダイヤモンドを賄賂として受け取っていたことが暴露される。それらの事件の影響から、1981年の大統領選挙でジスカール・デスタンは敗退し、政権交代が起こる。
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