ボルタ・ダ・エンペレサの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/01 14:21 UTC 版)
「アクレ紛争」の記事における「ボルタ・ダ・エンペレサの戦い」の解説
プラシド·デ·カストロは、直ぐにでもプエルト・アロンソに対して攻撃を加える計画であったが、ボリビア軍の部隊がオーソン川にそって行軍しているという情報を得て、これを撃退する必要に迫られた。プラシド·デ·カストロは、ボルタ・ダ・エンペレサ(西: Volta da Empresa、現在のリオブランコ)でボリビア軍を待ちぶせすることにした。 プエルト・アロンソの駐留を交代するために約100名の兵士を引き連れていたのはロセンド・ロハス大佐(Rosendo Rojas)であった。ロセンド・ロハスは、反乱の情報を得ると直ぐに行動を開始した。ロセンド・ロハスの部隊は夜間行軍を行い、ボルタ・ダ・エンペレサへ向かった。1902年9月18日の朝、待ちぶせしていた反乱軍の隙をついて攻撃を加え、3時間後には反乱軍は遁走を始めた。 奇襲に成功したボリビア軍であったが、7名のボリビア兵が死亡し、弾薬も大量に消費していた。ロセンド・ロハスは、ボルタ・ダ・エンペレサに陣地を築き、プエルト・アロンソとリベラルタに補給を要請する手紙を送った。 プラシド·デ·カストロは、反乱軍を立て直し、500名以上の兵士でロセンド・ロハスのボリビア軍陣地を包囲した。1902年10月5日、プラシド·デ·カストロは、攻撃を命じた。ボリビア軍もよく応戦し、この日の攻撃では決着がつかなかった。しかし、ボリビア側は弾薬を使い果たし、食料なども枯渇していた。1902年10月15日、ロセンド・ロハス大佐は、降伏文書に署名した。
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