フランツ・ヨシアス公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 04:48 UTC 版)
「ザクセン=コーブルク」の記事における「フランツ・ヨシアス公」の解説
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公ヨハン・エルンストが1729年に亡くなると、遺言によりクリスティアン・エルンストとフランツ・ヨシアスが所領を共同で相続したが、クリスティアン・エルンストはザールフェルト、フランツ・ヨシアスはコーブルクに宮廷を置く二重宮廷となった。クリスティアン・エルンストが1745年に亡くなると、フランツ・ヨシアスがザールフェルトを継承した。フランツ・ヨシアスは多数の子女で領地を分割相続するのは公家断絶の元であると考え、1747年には神聖ローマ帝国の認可を受けて継承法を長子相続に改めた。1806年に神聖ローマ帝国が消滅するとザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国として独立し、1826年にはザクセン=ゴータ=アルテンブルク家断絶に伴うエルネスティン系諸公国の領土再編によりザクセン=コーブルク=ゴータ公国となった。この際、ザクセン=コーブルク公国とザクセン=ゴータ公国の同君連合の形を採ったが、この連合関係は1918年11月のドイツ革命を経て1919年4月12日に分離条約が締結され、ザクセン=ゴータ自由州とコーブルク自由州に分離するまで続いた。
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