フランソワ・ドルレアン (ジョアンヴィル公)とは? わかりやすく解説

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フランソワ・ドルレアン (ジョアンヴィル公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/13 15:18 UTC 版)

フランソワ・ドルレアン
François d'Orléans

称号 ジョアンヴィル公
出生 (1818-08-14) 1818年8月14日
フランス王国ヌイイ=シュル=セーヌ、ヌイイ城
死去 (1900-06-16) 1900年6月16日(81歳没)
フランス共和国パリ
配偶者 フランソワーズ・ド・ブラガンス
子女 フランソワーズ
ピエール
家名 オルレアン家
父親 フランスルイ・フィリップ
母親 マリー・アメリー・ド・ブルボン
役職 フランス海軍提督
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フランソワ・ドルレアン: François d'Orléans, 全名:フランソワ=フェルナン=ルイ=マリー・ドルレアン: François-Ferdinand-Philippe-Louis-Marie d'Orléans〉、1818年8月14日 - 1900年6月16日)は、フランスの王族。ジョアンヴィル公。フランス海軍の提督を務めた。

生涯

フランス王ルイ・フィリップと妃マリー・アメリーの三男として、ヌイイ城で生まれた。海軍で学び、1836年に士官となった。1840年に艦長となり、セントヘレナ島からナポレオンの遺体を母国へ持ち帰った。

1848年2月革命で王政が廃止されると、一家でイギリスへ亡命。アメリカ南北戦争の際にはアメリカ政府に招聘され、息子と甥2人とともにワシントンD.C.を訪れていた。

フランス第二帝政時代の1870年、偽名を用いて母国へ入国し、軍に入隊して良い働きを見せたが、時の首相レオン・ガンベタによって逮捕され、イギリスへ強制送還された。

1871年国民議会議員に選ばれるものの、元王族が議席を持つのを疎まれ、1876年に辞職に追い込まれた。

1900年パリで死去。

子女

1843年5月1日、リオデジャネイロブラジル皇女フランシスカ(フランス語名フランソワーズ・ド・ブラガンス)と結婚。2子をもうけた。

脚註

参考文献

関連項目




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