フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクールとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクールの意味・解説 

フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/23 14:01 UTC 版)

チャールズ・ウィルソン・ピールによる肖像画、1794年と1797年の間。

リアンクール領主および第7代ラ・ロシュフーコー公爵英語版フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコーFrançois Alexandre Frédéric de La Rochefoucauld, seigneur de Liancourt et 7e duc de La Rochefoucauld1747年1月11日1827年3月27日)は、フランス王国の貴族、廷臣。バスティーユ襲撃を国王ルイ16世に報告する際の言葉「いいえ、陛下。革命でございます」で知られる[1]。社会改革を推進したことで知られ、教育学者ジョセフ・ランカスターの理論に基づく学校の再編[2]ワクチン接種の推進[1]といった功績がある。初代リアンクール公爵(1765年創設)、第2代エスティサック公爵(1783年継承)。第7代ラ・ロシュフーコー公爵(1792年継承)。

生涯

初代エスティサック公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ラ・ロシュフーコー(Louis François Armand de La Rochefoucauld, 1er duc d’Estissac)(1695–1783)と第5代ラ・ロシュフーコー公爵アレクサンドルの娘で従妹だったマリー・エリザベート・ド・ラ・ロシュフーコー (1718–1789)との息子として、1747年1月11日にラ・ロシュ=ギュイヨン英語版で生まれた[1]。父フランソワ・アルマンはもともと傍系のロイ伯爵だったが、直系の娘と婚姻を結んだことで、エスティサック公爵家の創設を許可された。父は40万フランを支払って王室衣裳寮長官に就任した人物だった[1]騎銃兵英語版隊の士官になり、17歳で結婚した[1]。もっとも、ラ・ロシュフーコーは陸軍より農業に興味を持った[2]

ルイ15世の晩年にルネ=ニコラ・ド・モプー英語版率いる政府に反対し、ルイ16世が重用した経済学者を支持したことでルイ16世に起用された[2]

イングランドに訪れたことがあり、そのときの見聞を元にイングランドやスイスから畜牛を輸入し、リアンクール英語版の領地で農園を開設した[1]。このほかに領地で紡績工場を設け、兵士の息子向けの工芸学校を開設した[1]。この工芸学校は1788年に王家の庇護を受け、フランス国立高等工芸学校へと発展した[1]

1789年三部会英語版第二身分の議員に選出され、王家を擁護しつつ社会改革を進めようとしたが失敗に終わった[1][2]。1789年7月14日のバスティーユ襲撃の後、その夜にパリの情勢について国王ルイ16世に警告しようとし、ルイ16世から「反乱か」と聞かれたところ、「いいえ、陛下。革命でございます」(Non, sire, c’est une révolution.)と返答したという[1][2]。その数日後に憲法制定国民議会議長に選出されたが、1か月を満たずに退任した[1][2]。10月5日から6日にかけてルイ16世がヴェルサイユ宮殿からパリに還御したときは国王に同伴した[2]

1792年にフランス北部のノルマンディー師団の指揮官になり、ルーアンでルイ16世を保護しようとして失敗したが、その代わりとしてルイ16世に多額の資金を提供した[1][2]。同年の8月10日事件を経てイングランドに逃亡し、農学者アーサー・ヤング英語版のもとを訪れた[1]。9月14日に従兄にあたる第6代ラ・ロシュフーコー公爵英語版ルイ・アレクサンドル・ド・ラ・ロシュフーコー英語版ウール県ギゾル英語版で暗殺されると、ラ・ロシュフーコー公爵位を継承した[1]。1794年にアメリカ合衆国に逃れ、1799年のブリュメール18日のクーデターの後はナポレオン・ボナパルトの許可を受けてリアンクールの領地を取り戻した[2]。しかしそれ以外ではナポレオンにほとんど顧みられなかった[1]

1815年のフランス復古王政貴族院議員に就任したが、国王ルイ18世はラ・ロシュフーコー公爵の王室衣裳寮長官への復帰を拒否した[1]

アシル・ドゥヴェリアによる肖像画。公爵の死後の1836年に描かれた。

このときには領地で設立した工芸学校がシャロン=アン=シャンパーニュに移っていたが、ラ・ロシュフーコー公爵は帰国後より務めていた工芸学校の監察官に留任、貴族院で政府に反対したことで1823年に解任されるまで務め続けた[1]。このほか、フランスにおけるワクチン接種を推進して診療所を開設したが、これも1823年に無に帰した[1]フランス科学アカデミーは抗議としてラ・ロシュフーコー公爵を会員に選出したが、政府から敵対される状態は続いた[1]。1827年3月27日にパリで死去[2]、遺言により、領内リアンクールの墓地に葬られた。

評価

1913年の『カトリック百科事典』はラ・ロシュフーコー公爵を「フランス革命のフランクリン」と評し、貴族でありながら自由主義的とした[2]。功績としては病院の衛生状況の改善、ジョセフ・ランカスターの理論に基づく学校の再編[2]ワクチン接種の推進[1]が挙げられる。

家族

ランニオン伯爵イアサント・ガエトンの娘、フェリシテ・ソフィー・ド・ランニオンとの間に3男をもうけた。

  • フランソワ英語版(1765年 – 1848年) - 第8代ラ・ロシュフーコー公爵。第3代エスティサック公爵、第2代リアンクール公爵。陸軍元帥。父の後を継いで貴族院議員となった[1]
  • アレクサンドル=フランソワフランス語版(1767年 – 1841年) - ラ・ロシュフーコー伯爵。1805年に在ウィーン大使、1808年から1810年まで在デン・ハーグ大使を務めた。1822年に代議院議員に選出された[1]。1828年4月21日の法令で、兄フランソワより爵位を譲渡され、第4代エスティサック公爵。
  • フレデリック・ガエタン英語版(1779年 – 1863年) - ラ・ロシュフーコー=リアンクール侯爵。立憲君主制を支持したが、1848年革命以降は政界から引退した。父の著作やコンドルセ侯爵の回想録を編集し、自身も社会問題に関する著作を発表した[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Chisholm, Hugh, ed. (1911). "La Rochefoucauld-Liancourt, François Alexandre Frédéric, Duc de" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 221.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Herbermann, Charles, ed. (1910). "The Duke of La Rochefoucauld-Liancourt" . Catholic Encyclopedia. Vol. 9. New York: Robert Appleton Company. p. 5.

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクールのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランソワ・アレクサンドル・フレデリック・ド・ラ・ロシュフーコー=リアンクール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS