パレンシア司教座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/24 19:29 UTC 版)
3世紀かそれより早くに、カトリックのパレンシア司教座が設置された。司教は3世紀にアストルガ司教バシリデスを免職させるため集まったとされる。影響力ある西ゴート族が到来し、アリウス派を国教とした。反対の立場であるカトリック教徒たちはパレンシア司教座で議論した。アビラ司教プリシリアンの修行の噂はガリシアから発して、アリウス派の西ゴート族が治めるティエラ・デ・カンポスへ広まった。マウリラはパレンシアでレオビギルド王によってアリウス派司教に任命され、587年に行われたレカレード王のカトリック改宗に従った。589年に彼は第三回トレド公会議を補佐した。聖イルデフォンススの伝記作家コナンティウス司教は、トレドにおける宗教会議と会議を補佐し、音楽を作曲した。彼はさらに30年以上司教座を支配し、弟子である聖ブラガのフルクトゥオススを持った。
※この「パレンシア司教座」の解説は、「パレンシア」の解説の一部です。
「パレンシア司教座」を含む「パレンシア」の記事については、「パレンシア」の概要を参照ください。
- パレンシア司教座のページへのリンク