バルセロナ包囲戦 (1705年)とは? わかりやすく解説

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バルセロナ包囲戦 (1705年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/28 10:15 UTC 版)

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バルセロナ包囲戦 (1705年)

バルセロナ包囲戦(1705年)
戦争スペイン継承戦争
年月日1705年9月13日 - 10月19日
場所バルセロナ
結果:イングランド、ポルトガル連合軍の勝利
交戦勢力
イングランド王国
ハプスブルク君主国
スペイン王国
フランス王国
指導者・指揮官
ピーターバラ伯チャールズ・モードント
ジェームズ・スタンホープ
ゲオルク・フォン・ヘッセン

第1次バルセロナ包囲戦カタルーニャ語Setge de Barcelona)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1705年イングランドオランダオーストリアポルトガル連合軍がカタルーニャの中心地バルセロナを攻め落とした戦いである。バルセロナを攻め落とした連合軍はカタルーニャ、バレンシア地方を手中にした。

6月20日にポルトガルの首都リスボンに到着したイングランド艦隊はオランダ艦隊と合流して7月24日に出港、8月22日にバルセロナの海側を封鎖し、カール大公率いる兵を上陸させた。しばらく両軍はにらみ合いを続けていたが、9月13日にイングランド軍司令官のピーターバラ伯チャールズ・モードントはバルセロナ南のムンジュイック砦への攻撃を開始した。連合軍は一時は砦の守備兵に押し返されオーストリアの将軍ゲオルク・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットも戦死したものの砲撃によって17日に砦を占領することに成功した。

砦の陥落を見たバルセロナの住民は暴動を起こし、町は大混乱に陥った。ピーターバラはすぐにバルセロナに侵入して暴動を停止させ、バルセロナは同盟軍の手に入った。同盟軍はここを拠点にマドリードフェリペ5世に対抗していった。

出典

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。



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