バダシュトの会合
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1848年初夏、ホラーサーンの街シャールード近郊の村バダシュトにおける主立ったバーブ教徒80人が会合をした。ちょうどバーブのガーエム宣言直後にあたる。「生ける文字」の一人ゴッラトルエインの主導により、バーブの救出とシャリーアからの離脱を決定した。このとき彼女は、バーブに従いシャリーアに従わない以上もはやヘジャブは必要ないとして髪の毛を現したままの姿であったという。のちに女性平等の教説などにつながるが、この過激な主張により、保守的なシャイヒー派をはじめとする多くの人びとが離脱。バーブ教と渾然一体となっていたタブリーズなどのシャイヒー派は急速にバーブ色を薄めることになる。このバダシュトの会合が諸叛乱のはじまりであった。
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バダシュトの会合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 07:31 UTC 版)
1848年初夏、イラン北東部ホラーサーンの街シャールード近郊の村バダシュトにおいて、バーブ教徒約80名が会合をひらいた。バーブの「ガーエム宣言」直後のことであったが、ここでは、バーブ教の中枢をになった19人の「生ける文字」のなかの唯一の女性ファーテメ・バラガーニー(「ゴッラトルエイン」)の主導により、バーブの救出とシャリーアからの離脱を決定した。このとき彼女は、バーブにしたがい、シャリーアに従わない以上、「もはやヘジャブは必要ない」として頭髪を露わにした状態だったという。この主張は、のちに男女平等の教説などにつながるが、当時としては過激だったため、保守的なシャイヒー派をはじめとする多くの人びとが離脱した。バーブ教徒と一体的に活動していたタブリーズなどのシャイヒー派は急速にバーブ色を薄めることになった。 この会合は、そののちの諸反乱の嚆矢となった。
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