ニコラウス・フォン・ヴュルテンベルクとは? わかりやすく解説

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ニコラウス・フォン・ヴュルテンベルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/16 13:39 UTC 版)

ニコラウス
Nikolaus
ヴュルテンベルク家

称号 ヴュルテンベルク公
出生 (1833-03-01) 1833年3月1日
プロイセン王国カールスルーエ英語版
死去 (1903-02-22) 1903年2月22日(69歳没)
ドイツ帝国
プロイセン王国、カールスルーエ
配偶者 ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴュルテンベルク
父親 オイゲン・フォン・ヴュルテンベルク
母親 ヘレーネ・ツー・ホーエンローエ=ランゲンブルク
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ニコラウス・フォン・ヴュルテンベルクNikolaus von Württemberg, 1833年3月1日 - 1903年2月22日)は、ドイツヴュルテンベルクの王族で、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。ヴュルテンベルク公Herzog von Württemberg)。

生涯

ヴュルテンベルク公オイゲンとその2番目の妻でホーエンローエ=ランゲンブルク侯カール・ルートヴィヒの娘であるヘレーネ英語版の間の息子として、オーバーシュレージエンのカールスルーエ(現在のポーランドオポーレ県ナムィスウォフ郡ポクイ英語版)で生まれた。

ブレスラウの中等学校を卒業後、ハノーファーの工業高等専門学校に学び、さらにオーストリア軍に仕官した。1860年に陸軍少佐となり、1864年の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、1866年の普墺戦争などで戦った。1877年には陸軍少将およびクラカウ駐屯の旅団長に昇進、さらに1882年には陸軍中将およびコモーン駐屯の師団長となった。

1869年に異母兄オイゲンの娘であるヴィルヘルミーネ(1844年 - 1892年)と結婚したが、あいだに子供は生まれなかった。また1855年よりヴュルテンベルク王国貴族院議員の席を与えられたが、1894年にシュトゥットガルトに居を移すまでは議会を欠席し続けた。

1896年に同母兄のヴィルヘルムが死ぬと、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世推定相続人となった。1903年にニコラウスが死ぬと、ヴュルテンベルク家のカールスルーエ系は断絶し、王位継承権はアルツハウゼン系に移った。カールスルーエの所領は国王ヴィルヘルム2世が相続し、国王が1921年に死去すると、王家の家督を継いだアルブレヒト公の次男アルブレヒト・オイゲンに受け継がれた。

参考文献

  • R. Zerelik in: Sönke Lorenz, Dieter Mertens, Volker Press (Hrsg.): Das Haus Württemberg. Ein biographisches Lexikon. Kohlhammer, Stuttgart 1997, ISBN 3-17-013605-4, S.371



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