ニコライ・コヴァレフとは? わかりやすく解説

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ニコライ・コヴァレフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/03 17:22 UTC 版)

1999

ニコライ・ドミトリエヴィチ・コヴァレフコヴァリョフロシア語: Никола́й Дми́триевич Ковалёв、ラテン文字表記の例:Nikolai Dmitrievich Kovalyov1949年8月6日 - 2019年4月5日[1])は、ロシア連邦の軍人、チェキストシロヴィキ。元ロシア連邦保安庁(FSB)長官。上級大将。

生涯

モスクワ出身。1972年、モスクワ電子機械製造大学を卒業し、半導体機械製造設計局で設計技師として働く。

1974年、ソ連国家保安委員会(KGB)に入り、KGBモスクワ・モスクワ州局ペルヴォマイスキー地区課の初級作戦係から経歴を始める。2年間、アフガニスタンで勤務。1994年までは、ロシア連邦防諜庁(FSK)モスクワ市・モスクワ州局副局長。1994年、FSK次官に任命。1996年6月20日、ロシア連邦保安庁(FSB)長官代行に任命。

1996年7月9日、FSB長官に任命。FSB在任時代は、妥協的な人物と見られ、政治には余り関与せず、世間に余り知られなかった。1997年1月、省庁間対テロ委員会議長に任命。1998年7月、FSB長官を解任。

同年11月、暗殺未遂に関する流言の流布と関連して、ボリス・ベレゾフスキーを名誉毀損で告訴。この訴訟は、後任のFSB長官ウラジーミル・プーチンが支持した。解任後は、ゼレノグラード市の「科学センター」財閥の副総裁。

1999年12月、政治ブロック「祖国・全ロシアロシア連邦議会下院国家会議選挙に立候補し当選する。2000年春、国家反汚職委員会委員長に選出。

2019年4月5日、モスクワに於いて逝去。

パーソナル

妻帯(再婚)、1男1女を有する。

脚注

  1. ^ “State Duma lawmaker, former FSB head Nikolay Kovalyov dies aged 69” (English). TASS. (2019年4月6日). オリジナルの2019年4月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190407080220/http://tass.com/politics/1052408 2019年4月7日閲覧。 
公職
先代
ミハイル・バルスコフ
ロシア連邦保安庁長官
第3代:1996 - 1998
次代
ウラジーミル・プーチン




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