デランシー・ファーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:47 UTC 版)
「ロウアー・イースト・サイド」の記事における「デランシー・ファーム」の解説
アメリカ独立戦争以前のニューヨーク市(バワリー)から伸びるボストン郵便道路(英語版)の東にあったジェームズ・デランシー(英語版)の農場(デランシー・ファーム)の名残は現在もデランシー・ストリート(英語版)およびオーチャード・ストリート(英語版)の名前に残されている。現在のマンハッタンの地図上では、デランシー・ファームはディヴィジョン・ストリートからハウストン・ストリートの間の通りのグリッド状(碁盤目状)の区画にあたる。市街地の拡大に伴い、1760年代にデランシーは"ウエスト・ファーム" (West Farm) の南の通りの調査を開始した。デランシー・スクエア (Delancey Square) は、現在のエルドリッジ・ストリート、エセックス・ストリート、ヘスター・ストリート、ブルーム・ストリートに囲まれる広大なエリアをカバーする計画だったが、アメリカ独立戦争後にロイヤリストのデランシー家の資産が没収された際に、破棄された。 ニューヨーク市の没収委員会 (The Commissioners of Forfeiture) は貴族階級による碁盤目状の広場の計画を破棄した。デランシーによるニューヨークをロンドンのウエスト・エンドにする構想に代わり、この地区に根付くこととなる民主的な風土が確立された。
※この「デランシー・ファーム」の解説は、「ロウアー・イースト・サイド」の解説の一部です。
「デランシー・ファーム」を含む「ロウアー・イースト・サイド」の記事については、「ロウアー・イースト・サイド」の概要を参照ください。
- デランシー・ファームのページへのリンク