テオドリックとの不和(486年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:01 UTC 版)
「ゼノン (東ローマ皇帝)」の記事における「テオドリックとの不和(486年)」の解説
484年に起こったイルスとレオンティウスによる反乱では、ゼノンはテオドリックの裏切りを警戒してテオドリックをコンスタンティノープルの宮廷に留め置き、かわりにスキタイ人の将軍ヨハネスにテオドリックに従っていたゴート人の軍団の指揮を任せた。しかし、このことがかえってテオドリックの感情を害することになった。さらにゼノンがイサウリア人を懐柔しようとしてイサウリア人の将軍コトメネスにマギステル・ミリトゥムの地位を与えると約束したとき、ついにはテオドリックの我慢も限界に達した。486年にテオドリックはトラキアを荒らし回り、487年にはコンスタンティノープルを攻囲した。ゼノンはテオドリックに和解の提案を行い、テオドリックを副帝として帝国西半の統治を委ねるかわりに、レオンティウスの反乱を支持していたとされるイタリア領主オドアケルの討伐を依頼した。テオドリックはゼノンの提案に合意したが、ゴート人の多くはテオドリックと分かれて東ローマ帝国に残ることを選択した。488年、テオドリックは彼に同意した僅かな者たちだけでイタリアへ向けて出発していった。 491年、ゼノンはテオドリックのイタリア遠征の結果を見ることなく波乱に満ちた生涯を終えた。
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