チャリエン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/09 16:40 UTC 版)
「シーサッチャナーライ歴史公園」の記事における「チャリエン」の解説
13世紀より以前、タイ族はチャオプラヤー川上流域の谷に移動し、ヨム川のほとりに「水の都」を意味するチャリエン (Chaliang、タイ語: เมืองเชลียง) という名の町を創立した。チャリエンは次第に中国とクメール王朝の間の重要な貿易の中心地に発展した。中国人はその町を“Chengliang”と呼んだ。町はスコータイとシーサッチャナーライの地方支配者であった Pho Khun Sri Naw Namthom が統治する間、1180年までクメール王朝のもと実質的な自立性を享受すると、クメールの将官 Khomsabad Khlonlampong が直接的な支配を開始して重い税を導入した。1239年、ポークン・バーンクラーンハーオ(シーインタラーティット)とポークン・パームアンは反乱を決めてアンコールからの独立を宣言し、チャリエンを攻略した。チャリエンはスコータイ王国の一部となった。
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