チェイ・チェッタ2世とは? わかりやすく解説

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チェイ・チェッタ2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/30 15:40 UTC 版)

チェイ・チェッタ2世(チェイ・チェッタ2せい、クメール語:ជ័យជេស្ឋាទី២、1579年1627年)はカンボジア国王(在位:1619年‐1627年)[1]

チェイ・チェッタ2世
ជ័យជេស្ឋាទី២
カンボジア国王
在位 1619年 - 1627年

出生 1579年
カンボジア王国
死去 1627年
カンボジア王国ウドン
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略歴

チェイ・チェッタ2世は父のバロム・リヤチヤ7世と共に、1594年にシャム・カンボジア戦争(英語版)により、アユタヤに捕虜として連行された[1]

1601年に政治に関心を持たない国王ケオ・ファー1世を憂いたテヴィクサットレイ王女(英語版)により父バロム・リヤチヤ7世の帰還が要請され、1602年にはバロム・リヤチヤ7世が国王に即位した。しかしチェイ・チェッタ2世はアユタヤに実質の人質とて拘束され、バロム・リヤチヤ7世の幾度かの帰還要請をしたが許可されることはなかった。チェイ・チェッタ2世は、1605年にアユタヤで5年間をとして過ごしたあと還俗するとナレースワン王からに象狩りを命令されラオスに移動したが、隙をついてカンボジアに逃亡し同年にナレースワンは死亡した。帰国後まもなく東部地方の反乱の鎮圧を命令され鎮圧した。1618年広南国グエン氏の娘と結婚し、翌年1619年にバロム・リヤチヤ7世から譲位されチェイ・チェッタ2世は国王に即位した。1620年頃に首都をロンヴェーク(英語版)からウドン に遷都させた。1622年にアユタヤのソンタム王が攻めてきた。アユタヤ軍、カンボジア軍、双方7万人ほどの軍で、ポーサットに陣を置いたアユタヤ軍はカンボジア軍の奇襲を受けアユタヤ軍は大敗し、300人ほどの兵を連れて撤退した[1]

1627年に49歳でチェイ・チェッタ2世は死亡した[1]

脚注

  1. ^ a b c d マック・プン 著、佐藤恵子、石澤良昭 訳『カンボジア中世史』めこん、2021年12月28日、253‐309頁。ISBN 9784839603267 

参考文献

  • マック・プン(佐藤恵子、石澤良昭訳)『カンボジア中世史』めこん、2021年。ISBN9784839603267
先代
バロム・リヤチヤ7世
カンボジア王国国王
1619年 - 1627年
次代
スレイ・トマ・リヤチヤ1世英語版



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