ズィヤード朝の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 16:39 UTC 版)
ユーフィル朝は989年に再び攻撃し、ザビードを炎上させた。しかし、マムルークのアル・フサイン・ビン・サラマは、王国を完全な崩壊から救うことに成功した。彼は山岳民族を打ち負かし、ズィヤード朝の領域をかつての境界線まで戻した。アル・フサインは、井戸や運河を掘り、王国全体に道路を建設した、正義で意欲的な摂政として記憶された。彼は1012年に平和的に死ぬまで統治した。裏を返すと、981年以降、ズィヤード朝の君主が実質の権力を失った一方で、マムルーク達が真の権力を握っていたため、政治的混乱を引き起こした。アル・フサインの死後、彼の奴隷である宦官のマルジャンはワズィールとして権力を握った。彼は時代の国の高官となるナフィスとナジャフと呼ばれる2人のエチオピア人奴隷を育てた。カマル・スレイマン・サリービー(Kamal Salibi)によれば、最後のズィヤード朝の支配者は1018年に殺害され、ナフィスに取って代わられた。ナフィスは王を名乗ったが、すぐにナジャフの挑戦を受けた。ナフィスとマルジャンを破ったナジャフは、1022年にナジャフ朝を創設した。
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