エル・ティオ
(スパイおじさん から転送)
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エル・ティオ(スペイン語: El Tío))は、ボリビアの鉱山地帯に伝わる鉱山の守護精霊か悪魔、支配神。鉱夫の保護と破壊を司る。鉱夫は供物やタブー遵守などでこの守護霊を鎮めることで鉱山は崩落を防ぎ、命を守られるが、絶対ではなく、自然の摂理として、不条理に人命が奪われることもこともままある、と理解されている。
特に往年の大銀山であるポトシ市のセロ・リコ山鉱山を中心とした俗信であるが、ボリビア全般やアルティプラーノ地帯(隣国に及ぶ)の鉱山にも共有される。
名称
「ティオ」(スペイン語: tío)とはスペイン語で「おじさん」を意味する。
また、エル・ティオと、鉱山のスパイという存在(「悪魔」を充てるが、原義は異なる[4])は混同されており、区別は難しい[5]。
よって「ティオ・スパイ」(「スパイおじさん」[6]、「ティオ(おじ)」[7]、Tío Supay[8])とも称される。
起源
エル・ティオは、ボリビア全土の鉱山で畏怖崇拝されている、悪魔のような、また守護精霊のような伝説的・宗教的な存在である[9]。
より単純な起源論は、あくまで「スパイ」についてだが、先住民がなかなかスパイ信仰を棄教しないので、この精霊が悪魔のような角を持っているなどと吹聴して見せたが、結局、それにも慣れて順応してしまった、というものである[10]。
「ティオ」名も含む起源論では、植民地時代のスペイン人が賦役を課した(すなわち徴用した)先住民たち(mitayuq[注 1])の労働意欲を駆り立てるために、神と称して怠惰を罰するおそろしい悪魔[注 2]を作り上げたことによる、としている。ケチュア=アイマラ語には"D"子音が無いため、スペイン語の神である「ディオス Dios」が、自然とティオに転訛する結果となったと説明される[9]。
概説
エル・ティオをもってして「地下世界の主」[14]や「地底の王」[16]、「鉱山の支配神」[17] などと形容される。鉱夫にとっては、庇護も破壊をももたらす存在である[13]。異名の鉱山のスパイに関しては「地底の所有者」ともいわれる[18]。
前述したように、植民地政府が労働効率を奨励するはずが逆効果し[注 3]、手間のかかる宗教儀式が構築されてしまった。ポトシの現地人は、セロ・リコの鉱山を、アパチェタ、原義は「石塚」[19] )、すなわち神々が力を顕現する場所とみなすようになった。鉱夫は、あれこれ儀式をおこなったり、護符をつけたりしないと入山しなくなった。鉱山の縦坑の入り口にエル・ティオの素朴な像を立て、そのつど挨拶したり供物しないと入らなくなった[8]。
供物の儀式
今となってはセロ・リコ山のなかに数百ものエル・ティオ像が置かれており[13]、概してギョロ目で角を生やした悪魔[20]、 または悪魔を表したヤギ像だと説明される[13]。鉱夫たちはタバコ(葉巻)、酒(瓶入りのアグアルディエンテ)、コカの葉などを供え、無事に息災であることを祈る[21][13][22]。
現代では、火曜日と金曜日のメニュー変えでは、コカの葉、手巻きタバコ、白ラム酒などと決められており、謝肉祭の火曜日には チャラ儀式をおこない、すなわちチチャなどの酒類を大地に吸わせて捧げ、エル・ティオ像には、コンフェッティの首飾りをかける(上掲の⇒写真参照)[23]。
また、スパイへ生贄を捧げる儀式(k’araku)が8月に行われ、ラクダ科 (リャマやアルパカ)を屠る[23]。人類学者のジューン・ナッシュが1970年に同席した儀式では、ヤティリ(医の術者)が血を受け止めた皿を持って安全息災の祈祷をし、心臓を埋めている[注 4][24]。他にもリャマなどの血を鉱山の敷居や壁に投げかけたり[注 5]、動物を押し車にのせ燃料を掛けて火をつける犠牲法もあるのだという[23]。
エル・ティオは、像を祀る者には恩恵を、像を嘲笑する者には罰を加えると信じられた[20]。供物や、鉱山労働者が発するエネルギーが、鉱山の維持・再生には必要だという世界観であり、それが不足すると崩落が起きてしまう[25]。だが、そつなく供物をすれば万全というわけではなく、自然の摂理として、エル・ティオが不条理に人命を奪うことも、ままあることは理解されている[26]。
しかし、崩落の原因を問うに、なんらかのタブーの掟破りが起きた、とされることもある:鉱山飲食禁止、入山前の塩辛いもの摂取の禁止、鉱山へ女性の連れ込みの禁止、などである[27]。エル・ティオは、僧侶にしろ女性にしろ、そういったスカート的な服を着たものがギャラリー(横方向の分岐坑道の採鉱現場)に立ち入るのは、我慢ならないのだという[8]。エル・ティオに供物する風習は、アルティプラーノ地帯(隣国ペルーやチリに及ぶ)の鉱山社会にも伝搬しているという(ただしペルーには § 類種のムキあり)[27]。
縁故の神
エル・ティオの妻はチナ・スパイ別名「女悪魔」の夫であるが[7]、ビクトル・モントーヤは、ギリシア神話の冥王ハデスと拉致されたペルセポネーとの対比を見出している[15]。
カーニバルと舞踊
毎年、オルロのカーニバル開催の目玉は、閉祭日の灰の水曜日の前の土曜日におこなわれる「エントラーダ」[注 6]と呼ばれるパレードであるが、仮面や仮装した行列者が、大悪魔サタンかルシファー(エル・ティオ)、悪魔らや女悪魔ら(チナ・スパイたち[28])、大天使ミカエルなどに扮し、ディアブラーダこと「悪魔の踊り」も街中で披露してゆく[29]。この祭りのルシファー役やサタン役の踊り手が、じつはエル・ティオなことは、公然の秘密である[30][2]。このルシファー(エル・ティオ)こそ、ディアブラーダにおける最重要な花形である[32][34][注 7]。また、女悪魔ら(チナ・スパイたち)を女性が扮して演じるようになったのは1960 年代前半以降で、それ以前は男が女装で卑猥に踊っていた[7][28]。
ただカトリック教会側の建前と、原住民のエル・ティオ推しの願望とで葛藤の歴史が18世紀以来続いてきた[36]。
類種
ペルー中部の鉱山地帯で信仰されるムキ[注 8]は同類で、儀式や供物によって鉱夫らが恩恵を求める対象である[37]。
大衆文化
ドキュメンタリー映画『The Devil's Miner』(2005年)では、ポトシの村人がリャマを生贄に屠り、その血を鉱山の入り口や坑道にこすりつけ、人もその血をお互いに塗る場面があった[13]。
2013年、ノーティ・ボーイはサム・スミスとのコラボでエル・ティオの物語を歌った曲La La La を発売した。
注釈
- ^ ケチュア語の mit'a は労働の「シフト」と定義されているが、"mitayuq" という語は corvée (賦役)を課せられた労働者だと明確に解説されている[11]。
- ^ 角や勃起した男根をたくわえた悪魔[9][12]。
- ^ 原文の文言は"深刻な結果"といっているが、つまり、逆に悪しき結果となった、逆効果という意味を汲む。
- ^ ナッシュによれば、この k’araku 儀式は鉱山が軍に支配されたとき(1965年)から途絶えていたが、来訪した1970年に再開されたという。
- ^ 2005年のドキュメンタリー映画『The Devil's Miner』(2005年)にも撮影場面がある。 § 大衆文化参照。
- ^ entrade。
- ^ ただし兒島がダンス開催側から得た説明では、人数不足などあると(二人の)「サタン」は欠場する場合もあるとのことだったので、"「悪魔の踊り」の主役は「悪魔[たち]であって、「サタン」ではない"と結論している[7]。兒島は二人のサタンがダンス組におり、そのサタンのひとりが掛け持ちで「七つの大罪」劇のルシファーを演じるのだとする[35]。
- ^ muqui
出典
- ^ Bastien, Joseph W. (1987). Eliade, Mircea; Adams, Charles J.. eds. The Encyclopedia of Religion 12. Macmillan. pp. 137. ISBN 9780029094808
- ^ a b c Bonilla, Heraclio (November 2006). [336:RPITAA2.0.CO;2.pdf “Religious Practices in the Andes and their Relevance to Political Struggle and Development: The Case of El Tío and Miners in Bolivia”]. Mountain Research and Development 26 (4): 336 and Fig. 1 .
- ^ 諸隈夕子 (2024年2月27日). “4. さかさまの空の下で—インカの言葉をたどる旅:ケチュア語の複数形:「コンドルたち」は本当に「複数形」なのか?”. 2025年2月18日閲覧。
- ^ ケチュア語の supayは、「影」の意味だが、本来のアンデス宗教観では死者の国から生者の国に紛れ込んだ亡霊を指す。たとえ生者を道連れに誘うのだとしても、それは悪霊感覚ではなく[1]、いかなる規範の行動をすれば、安穏(の死)を得られるかコーチングもするといわれる[2]。より簡潔な説明では、「冥府の神」だったものを、キリスト教徒のスペイン人が「悪魔」の充て言葉として流用したものである[3]。
- ^ Sallnow, M. J. (1989). “9. Precious metals in the Andean moral economy”. In Parry, Jonathan P.; Bloch, Maurice. Money and the Morality of Exchange. Cambridge University Press. p. 213. ISBN 9780521367745
- ^ サナルディ, ホセ「スパイおじさん [Tío Supay]」『南米妖怪図鑑』セーサル・サナルディ (画); 寺井広樹 (企画)、ロクリン社、2019年、40–41頁。 ISBN 978-4-907542-73-3。
- ^ a b c d 兒島 (2005), p. 3.
- ^ a b c Claure Covarrubias & Monotoya (2005), p. 73.
- ^ a b c Estermann, Josef (2014). “7. La imagen de Dios en perspectiva indígena andina”. Cruz & Coca: Hacia la descolonización de religión y teología. Quito: Editorial Abya-Yala. p. 155 and n158. ISBN 9789942093752
- ^ a b c Birbragher-Rozencwaig, Francine (2022). “Modern Latin American Art Words”. Essays on 20th Century Latin American Art. Routledge. ISBN 9781000567700
- ^ Hyslop, John (1984). “Glossary: Definitions of Common Quechua Words”. The Inka Road System. Academic Press. p. xix. ISBN 9780123634603
- ^ a b Perrin, Marie France (2009). Bolivia vestida de fiesta. Photographs by Jaime Cisneros. La Paz, Bolivia: Impr. Sagitario. p. 113. ISBN 9789995406806 . "Supay se vuelve dueño de lo subterráneo , de la riqueza en las minas , de la fertilidad y del poder genésico ; por eso se lo representa con el falo erecto"
- ^ a b c d e f “THE DEVIL'S MINER. The Mountain”. Independent Lens. 7 November 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月12日閲覧。
- ^ 英語: "lord of the underworld"[13]。
- ^ a b Claure Covarrubias & Monotoya (2005), p. 54.
- ^ スペイン語: rey de lo subterráneo[15]
- ^ 平井京之介「(研究動向)企業の人類学的研究」『社会人類学年報』第24巻、1998年、172頁。 備考:ナッシュ June Nash (1979)、やタウシグ Michael Taussig (1980)を引いている。
- ^ dueño de lo subterráneo).[12]
- ^ apacheta: "stone cairn".
- ^ a b Claure Covarrubias & Monotoya (2005), p. 49.
- ^ Claure Covarrubias & Monotoya (2005), p. 63.
- ^ “Cerro Rico: Devil Worship on the man-eating mountain”. BBC News. (October 2014)
- ^ a b c Fernández Juárez, Gerardo (2000) "El culto al “tío” en las minas bolivianas". Cuadernos Hispanoamericanos (597), p. 30 apud Bonilla.[2]
- ^ Nash (1993), pp. 155–158ff.
- ^ Absi (2002), pp. 289–290.
- ^ Absi (2002), p. 289.
- ^ a b Valen, Gary van (2022). “Bolivia”. In Morse, Kimberly J.. The Americas: An Encyclopedia of Culture and Society [2 volumes]. Bloomsbury Publishing USA. ISBN 9798216047667
- ^ a b Sallnow (1989), pp. 249–250 en:June Nash (1979) の民俗学調査を引用。
- ^ Vicuña Guengerich, Sara (2012). "Bolivia and its folklore". In Herrera-Sobek, María (ed.). Celebrating Latino Folklore: An Encyclopedia of Cultural Traditions [3 volumes]. Bloomsbury Publishing USA. p. 123. ISBN 9780313343407。
- ^ Claure Covarrubias & Monotoya (2005), p. 53: "Los diablos y luciferes representan simbolicamente al Tío en el Carnaval . Lo interesante es cómo este ser demoníaco.. es capaz de bailar a su vez en honor a la Virgen del Socavón"(続けて「興味深いのは、その悪魔が.. 坑道の聖母を祝福するとして踊り(bailar)にくわわることができることである」とコメントしている)
- ^ Perrin (2009), p. 104.
- ^ "Supay, el diablo más importante de la danza Diablada"[31]。スパイ=ルシファー?
- ^ Campos Iglesias, Celestino (2005). Música, danza e instrumentos folklóricos de Bolivialocation=. roducciones CIMA. ISBN 9789990579154
- ^ "LUCIFER.- Figura central de la diablada"[33]
- ^ 兒島 (2005), p. 4.
- ^ 原住民がカトリックのカーニバル祭りに参加を許された(1781年)のち、カンデラリアの聖母がオルロのカーニバル祭の守護聖人に選定されたため(1789年)、エル・ティオ(スパイ)の神霊の嫉妬心を恐れた地元は、スパイを強引に参加させた[10]。しかし教会側には受け入れられないので、それをあくまで大悪魔ルシファーだとレッテルを張り、そのことが行き渡るように「七大罪」の演劇をもうけ、そこに出演させる演目を1818年に組み入れたが、ディアブラーダの踊りもそのうち廃されてしまった。踊りが復活したのは1904年の事である[10]。
- ^ Bonilla (2006), pp. 336, 340.
参照文献
- 兒島峰「オルロのカーニバルに込められた政治批判--国民革命成立後に脚光を浴びる「悪魔の踊り」から」『國學院雜誌』第106巻1号(通号1173)、2005年1月、1–12頁。
- Absi, Pascale (2002). “Los Hijos del Diablo. Hombres y Demonios en las Minas de Potosí, Bolivia”. In Pino Díaz, Fermín del. Demonio, religión y sociedad entre España y América. Editorial CSIC. pp. 271–300. ISBN 9788400080495
- Claure Covarrubias, Javier (2005). “Entrevista Con El Escritor Victor Montoya: El Tío De La Mina Se Universaliza en Europa”. Bolivian Studies Journal (12): 48–78 .
- Nash, June C. (1993). We Eat the Mines and the Mines Eat Us: Dependency and Exploitation in Bolivian Tin Mines. Columbia University Press. ISBN 9780231080514
外部リンク
- El Tío, Citizendium
- Photoes of El Tio, Potosí mine, Bolivia, Flickr
- La La La in YouTube, The song
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