スタリ・ヴィテズへのテロ攻撃
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「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「スタリ・ヴィテズへのテロ攻撃」の解説
ヴィテズでの戦闘は16日以降も続いた。攻撃が始まった後もなおスタリ・ヴィテズ旧市街(マハラ Mahala)はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の手中にあった。クロアチア防衛評議会は同地区を包囲し1993年4月から1994年2月まで断続的に包囲攻撃を続けた。この間、スタリ・ヴィテズでは大小さまざまな武力衝突が続き、中でも1993年7月18日には手製の爆発物が大量に投入され、多くのボシュニャク人市民が殺害された。スタリ・ヴィテズ地区への攻撃にはロケットランチャーや迫撃砲なども使用された 1993年4月18日には500キログラムの爆発物を搭載したタンカーがスタリ・ヴィテズのモスク付近で爆発し、政府機関の事務所を破壊、少なくとも6名が死亡し50名が負傷した。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷はこの事件について、スタリ・ヴィテズのボシュニャク人を標的として、クロアチア人勢力の一員によって実行された純然たるテロリズム攻撃であると断定した。
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