スクリボニウス・クリオとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 15:37 UTC 版)
「フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)」の記事における「スクリボニウス・クリオとの結婚」の解説
フルウィアが未亡人のままであった時期はそう長くはならなかった。ローマ人の慣習では服喪期間は10か月で、フルウィアはおそらく夫の服喪が明けて間もなくガイウス・スクリボニウス・クリオと再婚したとみられている。実際、2人の結婚した年は紀元前52/1年である。クロディウスと同様、クリオは平民の間で非常に人気があった。クロディウスほどの名家ではなく、最近になって執政官を出したばかりの家の出身だったが、保有する富では勝っていた。政治的にはもともと閥族派に属していたクリオであったが、フルウィアとの結婚後に平民派に転じ、クロディウスの迎合主義的な政策を多く継承した。そして間もなく、彼はガイウス・ユリウス・カエサルやクロディウス派支持者たちにとって重要な人物となっていった。紀元前50年、クリオはトリブヌスに選出された。 紀元前49年、クリオはカエサルの命に従って北アフリカのヌミディア王ユバ1世と戦ったが、バグラダス川の戦いで戦死した。この内戦中、フルウィアはカエサルの部隊が支配するイタリアの中で、ほぼローマおよびその近辺から離れなかった。クリオが死去した時点で、フルウィアの下にはクロディウスとの間の2人の子とともに、クリオの子を妊娠中もしくは出産したばかりだった。
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