チェスネキー・ジュラとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 貴族 > ハンガリーの貴族 > チェスネキー・ジュラの意味・解説 

チェスネキー・ジュラ

(ジュラ・チェスネキー から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 01:09 UTC 版)

ユリウス1世
Julius I
マケドニア大公
在位 1943年
別号 ピンドス公国摂政

出生 1914年
オーストリア=ハンガリー帝国
死去 1970年
ブラジル
家名 チェスネキー家ハンガリー語版
テンプレートを表示

チェスネキー・ジュラ(Cseszneky Gyula, 1914年 - 1970年)は、第二次世界大戦中のイタリア王国傀儡政権ピンドス公国・マケドニア公国の名目的な君主。ハンガリー王国の名門貴族チェスネキー家ハンガリー語版の当主であり、チェスネキー(en伯爵、Milvány男爵、初代バコニハンガリー語版伯爵。多彩な人物で詩人かつ翻訳家冒険家でもあった。

生涯

元々はカトリック司祭を目指していたが、軍人を志すようになった。イタリアの士官学校に通い、ピオンビーノバルダッサーレ・ボンコンパーニ英語版 の援助を受けた。この間にイタリア文学に耽溺し、ガブリエーレ・ダンヌンツィオの詩をハンガリー語に翻訳するなどしている。

1940年の第二次ウィーン裁定後には、予備役の参謀将校としてトランシルヴァニアに進駐し、摂政ホルティ・ミクローシュよりヴィテーズ英語版・Milványiの称号を贈られた。1941年にはクロアチア独立国トミスラヴ2世よりバコニ伯の称号を受けた。1943年にイタリアが建設したピンドス公国の摂政となり、その後成立したマケドニア公国では大公ユリウス1世として国家元首に就任したが、どちらの場合も実権を保持していなかった。さらに1943年9月にはイタリアが連合国に降伏したため、ナチス・ドイツの手によってバルカン半島は占領された。チェスネキーは強制退位させられ、ハンガリーに帰国した。兄チェスネキー・ミハーイ英語版 がミカエール1世として即位するよう求められたが拒否し、公国自体が消滅した。

チェスネキーは反ナチス主義者であり、ユダヤ人の親族もいたためゲシュタポに追われることになった。またブダペストではナチスの迫害からユダヤ人の救出をしたため、戦後にはイスラエルより「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られている。

戦後、チェスネキーはハンガリー共産政権から逃れるため、同様に傀儡君主であったトミスラヴ2世とともにアルゼンチンに亡命した。その後チェスネキーはブラジルで生活し、1970年に死亡した。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「チェスネキー・ジュラ」の関連用語

チェスネキー・ジュラのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



チェスネキー・ジュラのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのチェスネキー・ジュラ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS