コンラーディンとは? わかりやすく解説

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コンラーディン

名前 Conradin

コッラディーノ

(コンラーディン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 10:18 UTC 版)

コッラディーノ
Corradino
シチリア国王
エルサレム国王
マネッセ写本の挿絵、コンラディン王
在位 1254年5月21日 - 1268年10月29日

出生 1252年3月25日
神聖ローマ帝国バイエルン
死去 (1268-10-29) 1268年10月29日(16歳没)
ナポリ、メルカート広場
埋葬 ナポリ、サンタ・マリア・デル・カルミネ教会
家名 ホーエンシュタウフェン家
王朝 ホーエンシュタウフェン朝
父親 コンラート4世
母親 エリーザベト・フォン・バイエルン
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コッラディーノ(Corradino, 1252年3月25日 - 1268年10月29日)は、ホーエンシュタウフェン朝シチリア王エルサレム王(在位:1254年 - 1268年)。コンラディン(コンラーディン・コンラート)とも呼ばれる。まれにローマ王コンラート5世とも通称される。

父はシチリア王コッラード(ローマ王コンラート4世)、母はバイエルン公ライン宮中伯オットー2世の娘エリーザベト

概要

1254年、父が没してシチリア王を継いだがローマ王位は継承できず、神聖ローマ帝国大空位時代を迎えた。幼少であったため、母方の叔父のバイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ2世に保護された。

1266年、父方の叔父マンフレーディが敗死するとイタリアに侵攻し、シャルル・ダンジューと戦ったが、1268年8月23日タリアコッツォの戦い英語版で敗れる。いったん、皇帝派が多勢いるピサに逃亡しようと試みるが、トッレ・アストゥーラにて捕縛され、幽閉された。

その後ナポリに移され、10月29日、バーデン辺境伯フリードリヒ1世ら7人と共に死刑執行人ドメニコ・プンツォの手によってメルカート広場で斬首され、彼の死によって、ホーエンシュタウフェン朝は完全に滅びた。

1351年、斬首刑が行われた場所にサンタ・クローチェ・アル・メルカート教会イタリア語版が建てられた。



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