グラッドストンの国葬をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「グラッドストンの国葬をめぐって」の解説
ヴィクトリア朝中期から後期にかけて4度にわたって首相を務めた自由党党首ウィリアム・グラッドストンはヴィクトリア女王と仲が悪かったため、女王から干されているバーティに対して好意的だった。女王に独断で政府の機密文書をバーティに提供してくれた。 そのグラッドストンも1898年5月19日に死去した。議会の要請で国葬が営まれることになったものの、女王はグラッドストン夫人に弔電を打つ以上の弔意を表すことを嫌がった。これに対してバーティは英国を代表する政治家の国葬に王族がノータッチというのは問題があると考え、女王の反対を無視してでもグラッドストンの棺の介添人になる決意を固めた。 5月28日にウェストミンスター寺院で国葬が執り行われ、その棺にはバーティとヨーク公ジョージがぴったりと張り付いた。これは恐らく彼のはじめての母への反逆だった。
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