グエン・ファン・ロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 01:48 UTC 版)
現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。 削除についての議論は、削除依頼の依頼サブページで行われています。削除の議論中はこのお知らせを除去しないでください。 この項目の執筆者の方々へ: まだ削除が行われていない場合は、議論に参加し、削除の方針に該当するかどうか検討してください。また、本項目を既に編集されていた方は、自身の編集した記述内容を念のために控えておいてください。 |
グエン・ファン・ロン
Nguyễn Phan Long
阮攀龍 |
|
---|---|
![]()
ハノイにて(1950年)
|
|
生年月日 | 1888年 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1960年7月16日(71〜72歳) |
死没地 | ![]() |
出身校 | リセ・アルベール・サロー |
所属政党 | 立憲党 |
配偶者 | チャン・ティ・グエン |
![]() |
|
在任期間 | 1950年1月20日 - 1950年5月7日 |
国長 | バオ・ダイ |
|
|
内閣 | バオ・ダイ グエン・ファン・ロン |
在任期間 | 1949年7月1日 - 1950年5月1日 |
グエン・ファン・ロン | |
---|---|
各種表記 | |
チュ・クオック・グー: | Nguyễn Phan Long |
漢字・チュノム: | 阮攀龍 |
北部発音: | グエン・ファン・ロン |
日本語読み: | げん はんりゅう |
グエン・ファン・ロン(阮 攀龍、ベトナム語:Nguyễn Phan Long / 阮攀龍, 1888年 - 1960年7月16日)は、ベトナムの政治家、ジャーナリスト。ベトナム国第2代首相、外務大臣を務めた。
経歴
1888年4月3日にフランス領インドシナ、コーチシナ、サイゴンにて誕生する[1]。ロンはハノイに送られ、リセ・アルベール・サローで教育を受けた。その後サイゴンに戻り、高校教師兼ジャーナリストとして働く。1917年には『ラ・トリビューン・インディジェーヌ』紙で働き、1920年には新聞『レチョ・アンナミテ』を創刊し、アンドレ・マルローの友人であったベトナム民族主義者ウジェーヌ・ドジャン・ド・ラ・バティと働いた[2]。ジャーナリスト時代には、心霊術やベトナムの宗教カオダイ教について執筆していた。1920年代から1930年代にかけてロンは、ブイ・クアン・チューが率いて1923年に設立された民族主義政党「インドシナ立憲党」の副党首を務め、植民地評議員に選出される。ロンは1936年、カオダイの統一運動を試みた「カオダイ宗派統一会議」の議長に選出されたが、結局失敗に終わった。1945年以降は外務大臣、内務大臣、『レチョ・デュ・ベトナム』の編集長を歴任。ロンはカオダイ教の熱心な信者で、流暢なフランス語を話し、チャン・ティ・グエンと結婚している。1960年7月16日、サイゴンで71歳の生涯を閉じた[3]。
脚注
- ^ (ベトナム語) Từ điển Văn học (Bộ mới). Thế giới. (2004). pp. 1176
- ^ Quelques notes sur Eugène Dejean de la Batie Vĩnh Đào,
- ^ “Nguyen Phan Long Dies at 72; First Vietnam Premier in 1950”. The New York Times (1960年7月19日). 2023年11月24日閲覧。
- グエン・ファン・ロンのページへのリンク