キロスの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/28 23:05 UTC 版)
「ルイス・バーエス・デ・トーレス」の記事における「キロスの航海」の解説
ポルトガル人キロスは「サン・ペドロとサン・パブロ」号(150トン)、「サン・ペドロ」号(120トン)、付属船「3人の王たち」号の3隻を率いて、1605年12月にスペイン領ペルーのカヤオから出帆した。1606年5月、現バヌアツのエスピリトゥ・サント島に到達。キロスはこの島を「ラ・アウストリャリャ・デル・エスピリトゥ・サント」と名付けたが、「アウストリャリャ」("Austrialia")は当時のスペイン王室が属していたオーストリアのハプスブルク朝に敬意を表してのことであった。 その後の6週間、キロスの船隊は海岸線を探索しながら航海した。1606年6月11日の夜、キロスの乗った「サン・ペドロとサン・パブロ」号は悪天候のため他の2隻と別れ別れになってしまい、(本人の言によれば)エスピリトゥ・サント島にも戻れなかったためメキシコのアカプルコへと帰還した(1606年11月到着)。キロスに対して批判的であった士官ディエゴ・デ・プラドという人物の証言によると、指導力の欠如と反乱の勃発が「サン・ペドロとサン・パブロ」号の落伍の理由である。
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