カスティエ門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > カスティエ門の意味・解説 

カスティエ‐もん【カスティエ門】


カスティエ門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 09:11 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
カスティエ門
ピレネー=オリアンタル県における位置
概要
用途 要塞
自治体 オクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県ペルピニャン
フランス
座標 北緯42度42分02秒 東経2度53分38秒 / 北緯42.70056度 東経2.89389度 / 42.70056; 2.89389座標: 北緯42度42分02秒 東経2度53分38秒 / 北緯42.70056度 東経2.89389度 / 42.70056; 2.89389
着工 1368年
建設停止 1542年
所有者 ペルピニャン
設計・建設
建築家 Guillaume Gatard
テンプレートを表示

カスティエ門フランス語: Le Castillet, カタルーニャ語: Castellet)は、フランスオクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県ペルピニャンにある要塞

歴史

「小カスティエ」部分などが残る1824年の版画

レコンキスタによってペルピニャンを含むルシヨン地方を征服したアラゴンハイメ1世は、ルシヨンバレアレス諸島を合わせてマヨルカ王国を建国し、ペルピニャンとパルマ・デ・マヨルカを首都とした。城郭都市ペルピニャンの城門として、アラゴン連合王国時代の1368年にカスティエ門の建設が開始された[1]。ペルピニャンの町は完全に城壁で囲まれる予定であり、現在でもカスティエ門以外の遺構も残っている。カスティエ門よりやや早く、1324年にはペルピニャン大聖堂英語版の建設も始まっている。

1451年からのナバーラ内戦後には、ペルピニャンを含むルシヨン地方がアラゴン連合王国からフランス王ルイ11世(在位1461年-1483年)に譲渡された[1]。ルイ11世の時代には、ドームを持つタレット(小塔)やテラスが追加されている[1]。2番目の門であるノートルダム門もこの時期に追加されている。

17世紀と18世紀には牢獄として使用された[1]。1889年にはフランスの文化遺産保護制度において歴史的記念物に指定された[2]。現在は建物内に郷土史や民族誌を専門とするカーサ・パイラル博物館が入っている[1]

特徴

「大カスティエ」「小カスティエ」「多角形の要塞」の3つの部分からなっており、「大カスティエ」と呼ばれる建物の主要部分はレンガ大理石で築かれている[1]。「大カスティエ」の幅は31メートル、「小カスティエ」の幅は8メートルだった。銃眼を備えた壁の高さは20メートルであり、タレット(小塔)の最上部は29.2メートルである。壁の厚みは1階部分が3.5メートル、2階部分が2.8メートル、3階部分が1.6メートルである。建物内の中央部には直径2.77メートルの螺旋階段がある。20世紀初頭に要塞部分は破壊されたが、「大カスティエ」「小カスティエ」は解体されずに残っている[2]。頂上までに142段の階段がある[1]

カスティエ門周辺のパノラマ写真

脚注

  1. ^ a b c d e f g LE CASTILLET ET LE MUSÉE CASA PAIRAL Perpignan Tourisme
  2. ^ a b Castillet Mérimée

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カスティエ門」の関連用語

カスティエ門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カスティエ門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカスティエ門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS