インドネシア・ラヤ_(新聞)とは? わかりやすく解説

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インドネシア・ラヤ (新聞)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/20 04:28 UTC 版)

Indonesia Raya
設立者 モフタル・ルビス
設立 1949年
言語 インドネシア語
廃刊 1974年
インドネシア

インドネシア・ラヤ』(Indonesia Raya) は、1949年モフタル・ルビスらによって共同創設されたインドネシア新聞1974年に廃刊されるまで、スカルノ政権、スハルト政権下で、何度となく発行禁止措置を受けた。

沿革

『インドネシア・ラヤ』は、1949年モフタル・ルビスらによって共同創設された[1]。同紙は、軍の情報部局から、不定期的に資金提供を受けていたが[2]報道の自由を掲げた言論を展開し、政府を「第一の敵 (adversary number one)」としていた[3]1956年当時の『インドネシア・ラヤ』の発行部数は 40,000部であったが[4]1957年以降には、6回にわたり発行禁止措置を受けた[1]

ルビス編集長、1955年頃。

1958年10月、『インドネシア・ラヤ』は発禁となり、モフタル・ルビスは投獄された[5]。この日刊紙は久しく休刊状態だったが、1968年に至り、新秩序英語版政権下で発行が許可された[1]。かつての職員や役員が、仕事を再開するよう呼び戻され[5]

1969年以降、『インドネシア・ラヤ』はプルタミナの腐敗に関する数多くの記事を掲載した。『コンパス (Kompas)』など一部の新聞は『インドネシア・ラヤ』を支持したが、他の新聞は『インドネシア・ラヤ』がプルタミナと利害の対立を起こしており、石油公社をゆすろうとしているのだと主張した。最終的に1970年8月に至り、『インドネシア・ラヤ』は、報道を止めるか、深刻な反動に直面することになると告げられた[6]

『インドネシア・ラヤ』は1973年タイ王国で起きた学生蜂起と政権の崩壊を報じた。この報道は、マラリ事件の原因の一つとなったと考えられている[7]。事件後の1974年、『インドネシア・ラヤ』は再び発行禁止となったが、その一因はプルタミナの腐敗を報道したことにもあった[1][5]。モフタル・ルビスと数人の記者たちは裁判のないまま投獄され、他の記者たちもブラックリストに載せられた[5]。結局、同紙はそのまま廃刊となった[1]

脚注

  1. ^ a b c d e A. Junaidi (2004年7月3日). “Press freedom fighter, writer Mochtar Lubis passes away”. The Jakarta Post. 2012年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月9日閲覧。
  2. ^ Hill 1994, p. 32
  3. ^ Kakiailatu 2007, p. 61
  4. ^ Kakiailatu 2007, p. 70
  5. ^ a b c d Badri Jawara (2002年7月23日). “Press freedom 'still under threat'”. The Jakarta Post. 2011年7月9日閲覧。
  6. ^ Hill 1994, p. 38
  7. ^ Hill 1994, pp. 153–154

参考文献




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