イサーク・スウェールズ (駆逐艦)とは? わかりやすく解説

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イサーク・スウェールズ (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/11 00:51 UTC 版)

艦歴
発注
起工 1938年11月26日
進水 1940年3月16日
就役 1941年5月29日
退役
その後 1942年11月13日、ドイツ潜水艦「U431」の雷撃を受け沈没
除籍
性能諸元
排水量 基準:1,628トン、満載:2,240トン
全長 107.0m
105.0m(水線長)
全幅 10.6m
吃水 3.5m
機関 ヤーロー重油専焼三胴型水管缶3基
+パーソンズギヤード・タービン2基2軸推進
最大出力 45,000hp
最大速力 37.5ノット
航続距離 19ノット/5,400海里(重油:696トン)
乗員 194名(戦時)
兵装 10.2cm(45口径)連装速射砲3基
ボフォース 40mm連装機関砲2基
エリコン 20mm単装機銃2基
ヴィッカース 12.7mm四連装機銃2基
53.3cm四連装魚雷発射管2基

イサーク・スウェールズ (Hr. Ms. Isaac Sweers) は、1940年進水オランダ海軍駆逐艦ティエルク・ヒッデス級

艦歴

1938年11月26日起工。1940年3月16日進水。竣工前にドイツ軍がオランダに侵攻してきたため、1940年5月に曳船に曳航されてイギリスへ脱出した。イギリスで1941年5月29日に竣工。

就役後しばらくは船団護衛に従事した。1941年9月、イギリス駆逐艦「ブロックレスビー」と衝突。

1941年9月以降は主に地中海で活動した。地中海ではハルバード作戦パーペテュアル作戦に参加。続いて1941年12月、H部隊から地中海艦隊への転属のための駆逐艦「シーク」、「リージョン」、「マオリ」とともに地中海を航行中、北アフリカへの補給物資輸送中のイタリア軽巡洋艦「アルベルコ・ダ・バルビアーノ」と「アルベルト・ディ・ジュッサーノ」の迎撃に向かう[1]。そして、これらの駆逐艦は12月13日のボン岬沖海戦で2隻のイタリア軽巡洋艦を沈めた。この海戦で「イサーク・スウェールズ」は2隻の軽巡洋艦に同行していた水雷艇「チーニョ」に対して砲雷撃を行ったが命中させられなかった[2]

「イサーク・スウェールズ」は1942年3月には東洋艦隊所属となるが、同年中にヨーロッパに戻った。1942年11月13日、アルジェ北方の地中海でドイツ潜水艦「U431」の雷撃で撃沈された。

脚注

  1. ^ Sea Battles in Close-up :World War 2 Volume Two, p.70
  2. ^ Struggle for the Middle Sea, p.153

参考文献

  • Eric Grove, Sea Battles in Close-up :World War 2 Volume Two, Naval Institute Press, 1993, ISBN 1-55750-758-9
  • Vincent P. O'Hara, Struggle for the Middle Sea, Naval Institute Press, 2009, ISBN 978-1-59114-648-3

外部リンク

  • Images and drawings on [1]
  • Images on [2]





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