イエメンの内乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 11:02 UTC 版)
「ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー」の記事における「イエメンの内乱」の解説
シャーフィイーは30歳のとき、アッバース朝によりイエメンの町、ナジラーン(現サウジアラビア領)の代官に任ぜられた。シャーフィイーは為政者として公正であることを示したが、まもなく党派争いに巻き込まれ、シーア派の反乱を幇助した廉で西暦803年に逮捕された。シャーフィイーは反乱を起こしたシーア派と共に、鎖につながれたまま、カリフの御座所であるシャーム地方ラッカに呼び出された。一説によれば、このときシャーフィイーは、他の反乱者たちが次々死刑になる中で、滔々と自己を弁護し、ついに教主ハールーン・ラシードに無罪を確信させたという。別の一説によれば、ハナフィー派法学者ムハンマド・シャイバーニーがカリフの宮廷におり、シャーフィイーを聖法の一学徒として有名であるなどと、とりなしたため救われたという。いずれにせよ、この事件がきっかけで、シャーフィイーはシャイバーニーと親しくなり、彼に弟子入りした。また、残りの人生を法学研究に捧げることにシャーフィイーを駆り立て、二度と仕官の道を探そうとしなかったことには、この不運な事件が原因としてあったと考えられている。
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