アントニオ・マリア・クラレとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アントニオ・マリア・クラレの意味・解説 

アントニオ・マリア・クラレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 03:29 UTC 版)

聖アントニオ・マリア・クラレ
司教、宣教師
教会 カトリック教会
聖職
司祭叙階 1835年
司教叙階 1850年
個人情報
出生 1807年12月23日
スペイン王国
カタルーニャ
サレント
死去 1870年10月24日
フランス共和国
ナルボンヌ
紋章
聖人
記念日 10月24日
崇敬教派 カトリック教会
列聖 1950年5月7日
列聖決定者 ピウス12世
テンプレートを表示

アントニオ・マリア・クラレ(Antonio María Claret, 1807年12月23日 - 1870年10月24日)は、スペインカトリック教会司祭司教聖人聖クラレチアン宣教会創立者。記念日は10月24日。

生涯

クラレはカタルーニャ地方サレントの織物産業の家族の一員として生を受け、5歳の頃、永遠の来世について苦しみ痛感した。その頃から司祭への志があったが、家族の承認を得られず家業に従事し、技術習得のためバルセロナに行った。22歳の時、周囲から期待された将来を放棄し、カルトジオ会修道士になることを決めたが、健康上の理由により断念、教区の神学校に入学した。1835年に司祭叙階され、1839年にイエズス会に入会するも退会、教区司祭としてカタルーニャ地方、カナリア諸島の教会を巡り信者を司牧した。クラレが叙階された当時、19世紀のスペインは、ナポレオンによる侵攻、たび重なる内戦で荒廃していたが、彼はそれを厭わなかった。

1849年、同僚司祭と共に宣教会をビックにて結成、「クラレチアン宣教会」の元となる。同年、キューバの大司教に任命される。クラレは当初は断ったが受け入れ、翌1850年に司教叙階を受けてキューバに発った。1855年に「汚れなき聖母のクラレチアン修道女会」を創立、現地での司牧に当たった。

1857年、スペイン女王イサベル2世の聴罪司祭として帰国、宮廷での霊的指導者となる。

1867年、政変によりクラレは女王一家、宮廷関係者と共にフランスへ亡命、2度と故郷に帰ることがなかった。1869年、第1バチカン公会議出席のため、ローマに赴くが体調が悪化、1870年、帰天(死去)した。

1950年、ローマ教皇ピウス12世により列聖された。

出典

  • 『クラレット 村から村へ』ビセンテ・マテウ著、端史江訳、新世社 1989年
  • 『改定新版 ミサの前に読む聖人伝』バリヌエボ著、サンパウロ 2013年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントニオ・マリア・クラレ」の関連用語

アントニオ・マリア・クラレのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニオ・マリア・クラレのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニオ・マリア・クラレ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS