アルマン・ド・ブルボン (コンティ公)とは? わかりやすく解説

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アルマン・ド・ブルボン (コンティ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 08:18 UTC 版)

アルマン・ド・ブルボン=コンティ
Armand de Bourbon-Conti
初代コンティ公
在位 1629年 - 1666年

出生 (1629-10-11) 1629年10月11日
フランス王国パリ
死去 (1666-02-21) 1666年2月21日(36歳没)
フランス王国ラングドック、ペズナ
配偶者 アンヌ・マリー・マルティノッジ
子女 ルイ・アルマン1世
フランソワ・ルイ
家名 ブルボン=コンティ家
父親 コンデ公アンリ2世
母親 シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー
宗教 キリスト教カトリック
サイン
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コンティ公アルマン

アルマン・ド・ブルボン=コンティフランス語: Armand de Bourbon-Conti, prince de Conti1629年10月11日 - 1666年2月21日)は、フランスの貴族。コンティ公

生涯

コンデ公アンリ2世の次男として、パリで生まれた。姉にロングヴィル公爵夫人アンヌ、兄にコンデ公ルイ2世がいる。1629年にコンティ公位を授けられた。次男ということで聖職者となることが決まっており、ブルジュ大学で神学を学んだ。しかし聖職に就くのを受け入れたとはいえ、彼には役職はなかった。アルマンは兄ルイ2世とともにフロンドの乱で戦い、異彩を放った。1648年には反乱軍司令官となった。1650年、アルマンは捕らえられ、ヴァンセンヌ要塞の虜囚となった。

風変わりな神秘思想に支配されるようになったアルマンは、監獄の中で少し精神に異常をきたした。姉アンヌに愛情を抱き、彼女に自分の気持ちを何とかわかってもらおうとした。彼は化学にこりだし、時には毒薬をこしらえたり、すぐに自身で打ち身だらけになるようになった。その狂った様子が最終的に運命を決めた。アルマンは医師や他人の援助を拒否したりしなかったのである。支援者たちが、精神に異常をきたしたアルマンを釈放しようと運動したのだった。

マザランが亡命すると、アルマンは自由の身となった。彼は王妃アンヌ・ドートリッシュの有名な女官シュヴルーズ令嬢(シュヴルーズ公爵夫人マリー・ド・ロアン=モンバゾンの次女)との結婚を望むが、国の最高権力者となった兄ルイ2世に阻まれた。アルマンは1651年にフロンド派に与したが、すぐにマザランと和解し、1654年にマザランの姪アンヌ・マリー・マルティノッジと結婚し、ギュイエンヌの知事に任命された。アンヌとの間には2子をもうけた。

1654年、アルマンは軍を率いてカタルーニャへ侵入、スペインから3つの都市を奪った。彼はのちフランス軍を率いてイタリアへ向かうが、1657年アレッサンドリアで打ち負かされラングドックへ撤退した。彼はその後学問に没頭するようになり、亡くなるまで神秘思想の追求をした。

クレルモンにおいて、彼はモリエールを師と仰ぎ、ルイ14世の宮廷に紹介した。

参考文献

先代
フランソワ
コンティ公
1629年 - 1666年
次代
ルイ・アルマン1世



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