アビダルマでの識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 16:41 UTC 版)
おおよそ、我々が心という意味とほぼ同義である。心(citta)、意(mano)、識と区分して呼ばれたとしても、それぞれ働きとしては別であっても、総括的には心と呼んで差し支えない。心意識として別々の働きがあるが、心の作用の区別に過ぎないと考える。 アビダルマ(阿毘達磨、abhidharma)では、五位の中で心(しん、心として働く主体)と心所(しんじょ、心の働く作用)と区分するときには、識は心(心王)にあたる。 識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つあり、別のものであるようだが、識としての物柄(体)は一つであるとする。六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、別々の認識であり、境(きょう、外界の対象)を写し取るようなものと考える。
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