アニタ・ウォードとは? わかりやすく解説

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アニタ・ウォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 22:56 UTC 版)

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アニタ・ウォード
マイアミ国際映画祭にて(2015年)
基本情報
生誕 (1956-12-20) 1956年12月20日(65歳)
出身地 アメリカ合衆国
テネシー州メンフィス
学歴 ラストカレッジ
ジャンル ディスコR&B
職業 歌手音楽家
活動期間 1979年 -
レーベル TKレコード

アニタ・ウォードAnita Ward1956年12月20日 - )は、アメリカ合衆国歌手音楽家[1][2]ディスコソング「リング・マイ・ベル英語版」の大ヒットで知られる[1][2][3][4]。なお、日本では一般的にアニタ・ワードと表記されてきた経緯がある[5]

経歴

テネシー州メンフィスに5人きょうだいの長女として生まれる[2]。2歳から人前で歌いはじめた[4]とされるほど早くから音楽に興味を持ち[2]、少女時代はメンフィスの様々な教会独唱者として活動していた[4]。地元のサウスサイド高校[6]を経て[3]合同メソジスト教会英語版傘下のラストカレッジ英語版に入ると、のちのマネージャー・共同制作者になる同大学の理事チャック・ホームズ(Chuck Holmes)と出会う[4][7]

チャックはある日、新入生のアニタがキャンパスを歩きながら歌っているのを耳にした[7]。その歌声に感銘を受けたチャックがアニタに声を掛けたのがプロデビューのきっかけとなる[4][7]。大学在学中はア・カペラ合唱団に所属し、ゴスペルカルテットとしてレコーディングに参加している[2]心理学学位を取得し[2]同大学を卒業したアニタは、メンフィスの小学校代用教員をしていた[2][3]

アニタのプロデビューのための曲作りとレコーディングを進めていたチャックは、音楽プロデューサーシンガーソングライターフレデリック・ナイト英語版にアニタを紹介した。チャックの例に漏れずアニタの歌声に感銘を受けたフレデリックは、ステイシー・ラティソウ英語版のために書き上げた楽曲を惜しまず提供する[2][4]。しかし、当時まだローティーンであったステイシー・ラティソウ[8]に合わせた歌詞にアニタは気が乗らず、詞の内容は書き直された[2]。また、バラードを歌うつもりでいたのを押し切って[3]フレデリックは賭けに出た。こうして完成させたのがディスコソング「リング・マイ・ベル」である。同曲は1979年5月にリリースされ、同年夏にはBillboard Hot 100をはじめ全米1位を記録し大ヒットとなった[2]。同曲はこれまで多くのアーティストによって、サンプリングリミックスカバーされ受け継がれている[4]

それ以降のアニタはヒットに恵まれずにいたが、1981年交通事故に巻き込まれて頭部外傷を負った影響で、発声にかかわるの病気を患って活動休止を余儀なくされる。翌年には病気が回復するが家庭に入るためにしばらく表舞台から退いた[4]。現在は故郷のメンフィスで暮らしている[2]

ディスコグラフィー

  • スウィート・サレンダー(Sweet Surrender)(1979年)
  • ソングス・オブ・ラブ英語版(1979年)
  • Wherever There's Love(1989年)

脚注

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