いせ‐ながうじ〔‐ながうぢ〕【伊勢長氏】
読み方:いせながうじ
北条早雲の前名。
伊勢長氏(いせ ながうじ) 1432?~1519
○新九郎 盛時 氏茂 早雲 宗瑞
◇父:伊勢貞定(盛定)?貞藤? 室:小笠原備前守政清女、葛山備中守維貞女 弟:伊勢弥次郎 子:北条氏綱、左馬助氏時、葛山中務少輔氏広、北条長綱
その出自については諸説あり確かではないが、室町幕府政所執事伊勢氏に関する一族と考えられる。応仁の乱の時は足利義視 の下にあった。妹が駿河・今川義忠室となったことから駿河に下向し、義忠死後の家督争いを治める。又、幕府の申次衆を務めた。やがて内乱の続く関東方面に進出していき、関東管領上杉氏らと争いを繰り返した。1495年大森藤頼の相模・小田原城を攻略。1516年伊豆・三浦義同を討った。後代に「早雲寺殿21箇条」を伝える。尚、後北条氏の祖とされるが、長氏自身は北条氏を名乗っていない。
◇父:伊勢貞定(盛定)?貞藤? 室:小笠原備前守政清女、葛山備中守維貞女 弟:伊勢弥次郎 子:北条氏綱、左馬助氏時、葛山中務少輔氏広、北条長綱
その出自については諸説あり確かではないが、室町幕府政所執事伊勢氏に関する一族と考えられる。応仁の乱の時は足利義視 の下にあった。妹が駿河・今川義忠室となったことから駿河に下向し、義忠死後の家督争いを治める。又、幕府の申次衆を務めた。やがて内乱の続く関東方面に進出していき、関東管領上杉氏らと争いを繰り返した。1495年大森藤頼の相模・小田原城を攻略。1516年伊豆・三浦義同を討った。後代に「早雲寺殿21箇条」を伝える。尚、後北条氏の祖とされるが、長氏自身は北条氏を名乗っていない。
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