「扶清滅洋」から「掃清滅洋」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:48 UTC 版)
「義和団の乱」の記事における「「扶清滅洋」から「掃清滅洋」へ」の解説
北京の陥落後しばらくして、清朝の姿勢は180度転換した。すなわち8月20日に己を罪する詔を出し、義和団を「拳匪」あるいは「団匪」と呼び反乱軍と認定した。以後義和団は清朝をも敵にまわし戦闘せざるを得なくなる。それまで「扶清滅洋」を旗印にしていた義和団は、清朝に失望し「掃清滅洋」(清を掃〔はら〕い洋を滅すべし)と変えるに至った(他に「清を平らぐ」、「清に反〔そむ〕く」などのバージョンもある)。これは後述する 北京議定書(辛丑条約)によって過大な賠償金を強いられることになった清朝が、その負担を庶民に転嫁せざるを得なくなったことも大きな理由である。
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