「愚行か?裏切りか?」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:14 UTC 版)
「パーヴェル・ミリュコーフ」の記事における「「愚行か?裏切りか?」」の解説
第四国会では、政府の無能無策ぶりに批判が集中し、1915年立憲民主党は、10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)、進歩党などと「進歩ブロック」を結成し全議員の約4分の3を押さえた。進歩ブロックは、皇帝が恣意的に任命した内閣ではなく「国会の信頼を得た内閣」を求めるようになった。 1916年、立憲民主党は正式に政府と対決する方針を採択し、11月国会が再開された。ミリュコーフは、ボリス・スチュルメル首相、そしてラスプーチンを激しく非難する爆弾演説を行った。ミリュコーフは政府を攻撃する中で「これは愚かさか、または裏切りか?」と繰り返すと、議員たちは「愚行だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と叫んだと伝えられている。ミリュコーフ演説は内閣総辞職を要求し終わった。 ミリュコーフの政府弾劾演説の効果は絶大であった。政府は演説の新聞掲載を禁止したが、この処置に意味はなく、数百万ものコピーが国内はもとより前線の兵士たち流布する結果に終わった。こうしてミリュコーフの演説は、革命的熱狂をロシア国内の諸勢力に巻き起こし、革命の実現に大きな役割を果たしたとされる。
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