1809年オーストリア戦役
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結果
フランスはオーストリアを完全に破ったわけではなかったが、1809年10月14日、シェーンブルンの和約が締結され、オーストリアは対仏大同盟から離脱し、第五次対仏大同盟は崩壊した。この和約の結果フランスはコロシュカ地方、カルニオラ、アドリア海の港を獲得し、ワルシャワ公国はガリツィアを与えられ、バイエルン王国はチロルのザルツブルクを得て、ロシアはテルノーピリ地方を割譲によって手に入れた。オーストリアは全人口の20%に当たる300万人の人口を失った[67]。フランツ1世は賠償金として8500万フランを支払い、ナポレオンの兄のジョゼフをスペインの王として承認し、大陸封鎖令の遵守する事に同意した[68]。オーストリアの敗北によってフランツ1世の娘マリア・ルイーザはナポレオンと婚約した。危険な事にナポレオンはマリア・ルイーザとの婚約でオーストリアが将来の脅威となる可能性を排除出来ると考えていた。しかしこの婚約はナポレオンの考えているようにハプスブルク家と家族の結束を持つことはなかった。
これらの戦いの結果、1811年のフランス帝国はオランダ、ハンブルク、ローマなどを併合し、人口4400万人、面積75万平方kmに達し、130県から構成される大帝国を形成した[69]。この頃のナポレオンの覇権はフランス帝国だけに留まらず、支配下のイタリア王国、兄ジョゼフ・ボナパルトが王位にあるスペイン、弟ジェローム・ボナパルトが王位にあるヴェストファーレン王国、義弟のミュラが王位にあるナポリ、同盟国のスイス連邦、ライン同盟、ワルシャワ公国に及んだ。
この戦いによる影響は全てがフランスにとって良いものではなかった。この戦争の間にチロルとヴェストファーレン王国で反乱が発生した事は、ドイツ人の間でフランス支配への不満が高まっている事を示していた[70]。シェーンブルンの和約が締結された数日後、ナポレオンが閲兵している間にフリードリヒ・スタップス(英語版)という名の18歳のドイツ人が、ナポレオンに近づいて刺そうと試みた。しかし折よく途中でラップ将軍によって捕えられた[71]。この時までにドイツ人にナショナリズムは非常に強く根付いていたが、第五次対仏大同盟の戦いによってナショナリズムは更に高まった[71]。1813年に第六次対仏大同盟は中央ヨーロッパの支配のためにフランスと戦っていたが、ドイツ人はフランスの支配に激しく反対し、連合国を大きく支えた。
この戦役はフランスの軍事的優越とナポレオンのイメージを傷つけた。アスペルン・エスリンクの戦いはナポレオンの軍歴の中で初めての大規模な敗北であり、多くのヨーロッパ諸国に歓迎された。オーストリアは戦略的な洞察力と戦術的能力がフランスだけのものではない事を証明した[72]。実際フランスは戦術的欠点によって苦しんでいた。フランス歩兵の練度の低下によって歩兵の縦列による機動を避ける事が増え、敵陣を突破する際に兵数に頼るようになった。このような部隊の展開はヴァグラムのマクドナルドの攻撃が最も際立っていた[72]。大陸軍はアウステルリッツやイエナで失った多くの熟練兵を徴集兵で補ったため、戦術的な柔軟さは損なわれて質的な優位を失いつつあった[73]。その上、ナポレオンの軍は多くの外国人が部隊を占めるようになり、士気が低下した。ナポレオンはフランス革命戦争の危機的な状況を打倒した時と同様に優れた指揮を取ったが、大陸軍の規模の増大は優れた知能を持つナポレオンさえも疲弊させた[73]。戦争の規模はあまりにも増大し、ナポレオンですら完全に対応する事が難しくなり、1812年のロシア遠征で同様の状況が繰り返された[73]。
- ^ Chandler p. 673. オーストリアはイタリアを攻撃するために100,000名の兵を送り、40,000名の兵でガリツィアを防衛し、200,000名の兵と大砲500門を6つの戦列と2つの予備の軍団に分けて、ドナウ川周辺の主戦場に送った。
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