郷挙里選 変遷と影響

郷挙里選

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 20:59 UTC 版)

変遷と影響

前漢

前漢の最初期にその政権を担当していたのは、劉邦に付き従って楚漢戦争に功績を挙げた元勲たちであり、彼らは、相国の家柄だった張良を除いて、全て下層階級の出身である。こういった集団が国を興すのは当時としては珍しかったが、自らもその一員だった劉邦はその有用性をよく理解しており、元の身分にこだわらず天下に広く人材を集める方針を示した。紀元前196年に出された、いわゆる「求賢令」がそれである[24]

蓋し聞く、王者は周文より高きはなく、伯者は斉桓より高きはなし。皆賢人を待ちて名を成す。今、天下に賢者智能あり。豈特に古の人のみならんや。患は人主の交わらざるが故に在るなり。士いずくんぞ由りて進まん。今吾天の霊をもって、賢士大夫と天下を定有し、もって一家となし、その長久世世、宗廟を奉ること絶えるなきを欲す。賢人已に我と共にこれを平らぐ。而して、吾と共にこれを安利せざるは可ならんや。賢士大夫の我に従いて游ぶを肯んず者あらば、吾能くこれを尊顯す。
天下に布告す。朕の意を明らかに知らしめよ。御史大夫昌は相国に下し,相国酇侯は諸侯王に下し、御史中執法は郡守に下し、その意称明徳の者あれば、必ず身ら勧め、これがために駕し、相国府に詣で、行義年を署せしめ。有りて言わざり覚せば免ず。年老癃病は遣すなかれ。[引用文の注釈 5]
劉邦、「求賢令」[71]

文帝もその方針を受け継ぎ、即位後、自分を擁立した元勲らから宗廟の尊重を理由に子の立太子を催促されると、「立太子は禅譲の可能性を潰すので、賢人の『選挙』を軽視するような印象を世間に与え、かえって宗廟のためにならない」と求賢令に絡めた理屈で拒否しようとした。紀元前177年に文帝は、日食を理由に「賢良方正で直言極諫できる者」を推薦するように命令し、同年に「賢良」のために「誹謗訞言の罪」を廃止して言論の自由を保障した。その後も、同様の命令を何度も出したが、いずれも上手くいかず、紀元前168年には賢人の登用方法が確立されていないことを認める発言をしている。しかし、こういった試行錯誤の末、紀元前165年晁錯を賢良で登用することに成功し、制科と対策が本格的に始まることとなった[24][72][73]

次の景帝の時代では、劉邦に登用された世代は既にほとんど死んでおり、元勲たちの子孫の世代が任子と功次で出世して次々と丞相に就任するようになったが、彼らは『史記』に「善良だが無能」と書かれている[24][74]

武帝紀元前141年に即位したときに、賢良で100人以上を登用し、その中にいた董仲舒の対策にあった提案を取り入れ、紀元前134年に孝廉による登用が始まった。また、同じく武帝が賢良で登用した公孫弘の提案により、紀元前124年に博士弟子の制度が始まった。このように郷挙里選の中核的な制度が武帝の時代に整備された理由は、登用する人材の質の向上を図る狙いと、中央集権体制の確立を図る狙いの2つの説で説明される。

董仲舒は、彼の対策の中で、任子・富貲による登用と、彼らが功労により昇進して次の権力者を生むのに十分な地位・財産を得ることは、人材の質の面で問題視していた。その後の事例を見ても、功次で昇進してきた人材に比べると、郷挙里選で抜擢された人材の方が確かに優秀で扱いにも差がある。例えば、成帝の時代には、孝者と功次で県令に昇進した人物がその県の盗賊に対応できなかったのに対して、察廉と秀才で県令になった人物と任地を交換すれば上手く治まったエピソードがある。成帝の時代は、博士は優秀な者なら尚書や刺史となり、政事に疎い最下等の人物は功次によって諸侯の太傅へと転出する、とされており、功次は一段低く見られていた[18][75]

ただし、太常の属官として人材登用に関わっていた司馬遷は、紀元前93年の「報任少卿書」において、出世の4条件として、奇策・実績・戦功と併記する形で功労を挙げており、武帝の晩年にあっても功次は健在であった。さらに、下火になっていったのはあくまで功次のみを理由とする昇進の話であり、特に孝廉などの常科で功労は評価基準として組み込まれていったので、功労が大きいほど孝廉や廉吏で推薦されやすいという傾向ができた。そして、任子・富貲に言及した董仲舒本人も、任子・富貲の改革そのものには手を付けず、これらによる登用はむしろ武帝期にも盛んに行われ、特に任子は以降も漢代を通じて有力な郎選であり続けた。やや時代は下って宣帝の時代に、王吉は任子の廃止を提案したが、宣帝はこれを退けている。実際に実力を示した勢力が政権の中枢に参画し続けることは、反乱が多発した当時にあって、国家運営の安定に寄与していたと考えられる[24][76][77]

他方で、そもそも、春秋戦国時代のころより、世間に広く賢人を求め、大量の食客を抱え士大夫として取り立てるのは、封建社会では諸侯の嗜みとして奨励される行為だった。劉邦や文帝の方針もその考えに沿ったものである。前漢の初めは郡国制で名実ともに諸侯が実在した時期であり、彼らはもちろんのこと、まだ領地に封じられていない高官たちもその常識に倣っていた。実際に、衛青は軍部のトップに登り詰めながら、抱える人材の登用に熱心ではなかった点で世間の評判を落としており、そのことを部下の蘇建中国語版に責められると、「竇嬰田蚡が大勢の食客を抱えていることを武帝は不快に思っていたので自分は遠慮する」と答え、後任の霍去病もその方針を踏襲した。つまり、こういった春秋戦国時代の気風を放置すれば、賢人たちによって力をつけた諸侯が割拠する時代へと逆行するおそれがあったので、諸侯らの下に賢人が帰属することは武帝の目には越権行為として映っていた。「求賢」を皇帝の専権事項とし、賢人たちを勅任官として皇帝に直属させる改革が必要とされたのである。この中央集権化のために行われたのが、文帝の始めた制科であり、武帝の定めた常科だった[46][78]

後漢

5
10
15
20
25
30
方正
辟召
徴召
不明
  •   最初に受けた推薦
  •   最終的な登用
後漢三公を経験した有伝者の登用経路

後漢になると、ある程度以上の高官になるためには、孝廉で推薦されることが必要となった。逆に、明経や博士弟子員による登用は衰退したが、これは孝廉の被推薦者にとって儒教の経典に習熟することが常識となったため、その科目としての役割が孝廉に吸収されてしまったからである。後漢の後期になると、孝廉で登用されることすら陳腐化し、途中に辞職を挟むなどの複雑な経歴で出世することが常態化した[42]

後漢で三公に就任した官吏は151人で、そのうち68人は歴史書の列伝に記載がある。さらに、このうち光武帝の時代に三公となった16人は王朝交代の動乱が出世の原因となっており、登用とはあまり関係がない。これを除いた52人のうち、最初に孝廉で推薦されている人は26人と半数に上り、残りは辟召が12人、任子が5人、徴召が4人、茂才が1人で不明が4人となる。これに登用拒否、辞職、連続登用などを考慮した最後に受けた登用は、孝廉が9人、茂才が1人、方正が3人、任子が2人、徴召が17人、辟召・高第が14人、不明が6人となる[42]

孝廉の初任官は比三百石の郎中であり、毎年200人程度登用された。郎中となる郎選は孝廉以外にもあるので実際の増加数はさらに多く、しかも、定員がなかったため、後漢の中期以降では、常時1,000人前後からその数倍いたと推定される。郎中から次に行くポストは小県の県長か大県の佐官であったが、ポストの数に比して待機中の人数が膨大であるため、この転遷には相当な功労が必要とされた。三公を目指すエリートにとって、孝廉で推薦されることは重要な手順のひとつでありこそしたが、実際に登用されて郎中になればそこから早期に抜け出すのは容易ではなく、結果的に、孝廉を拒否したり、後に制科や徴召などの別の登用を受けた方が、多く、より若くして三公になっている。時代が進むにつれ、この傾向はより顕著となっていった[42]

とはいえ、三公経験者に限らなければ、実は、後漢の登用で最も拒否率が低いのも孝廉である。確かに孝廉は郷挙里選の中では初任官の秩石が最も低いが、推薦される前の身分も最低クラスであり、推薦された大多数の官吏にとって登用を拒否する理由にはならなかった。また、歴史書に伝記がある後漢の人物は、孝廉で推薦された人が170人で茂才で推薦されたのは32人である。しかし、実際に後漢で推薦された人数は孝廉が約42,000人、茂才が約3,300人と推測されるので、それぞれ0.40%と0.96%に伝記があることになり、歴史に名を残すという観点では登用経路によって大きな差がある。茂才より有利な登用とされた制科や徴召の被推薦者の伝記がある割合には、より大きな偏りがあると思われる[58]

徴召による登用者が三公となるケースが目立って多くなっているが、これは他の登用方法を全て拒否した場合、最終的には徴召され、基本的にそれを拒否することはできなかったからである。登用の拒否は売名を目的とする場合もあったが、首都の政情不安や政争など生命にかかわる理由もあり、ポーズではなく本心から拒否していたケースも多くあったと考えられる[58]

三国時代以降

後漢の最後期、最高権力者が曹丕となって魏王朝の樹立が現実的となり、220年陳羣の提案により九品官人法が始まって、郷挙里選は廃止された。郷挙里選と九品官人法の関係については以下の2つの見解がある。

人事制度の観点からは、漢魏の易姓革命は、魏王曹丕の陪臣が、そのまま全て皇帝曹丕の勅任官になることを意味する。例えば、陳羣自身は、九品官人法を制定した時点で魏王国の尚書であり、革命によって魏王朝の尚書となった。ここで問題になるのは、逆に、漢で勅任官だった官吏は魏では失職することであり、郷挙里選では推薦する側の立場だった高官らもここに含まれる。つまり、推薦者不在のため郷挙里選の実施は現実的に不可能であり、しかも、人材を量的に補うために旧体制の勅任官を新体制の勅任官にスライドさせる必要が生じた。この時に旧体制の勅任官だった人々は、新しく設けられた中正官によって審査され、算定された九品に応じた新たな官職に割り振られた。この制度が九品官人法であり、言い換えれば、九品官人法は革命に必要だったから制定された仮初めの制度で、過渡期が終われば不要である。前述のように、実際にこういった考えから、西晋による再統一後の290年ごろに、衛瓘・司馬亮と劉毅は九品官人法の廃止と郷挙里選の復活を訴えた[70][79][2][3]

あるいはこうも考えられる。曹丕の父の曹操は郷挙里選による推薦者と被推薦者の人的結合という弊害を巧みに利用し、丞相・魏王となって自らの府を開くまでになった。丞相府や魏王の政府へ辟召した属官と漢王朝の勅任官を茂才や高第で入れ替えることによって、推薦者としての影響力を漢の要職に及ぼして勢力を拡大したのである。ところが、革命を目前とした曹丕らにとって、もはや勅任官を作り出すことに意味はなく、郷挙里選による人的結合の弊害はそのまま弊害として受け取られることになった。なんといっても、この人的結合が皇帝を超える権力を生んで革命を起こしうることを、曹操が証明してしまったからである。実際に魏王朝内でも郷挙里選による人的結合が露呈するケースがあり、例えば、魏王国では劉備死亡の知らせを受け祝ったが(この時点では劉備は存命で誤報だった。劉備の死去は、漢魏革命後の223年)、袁渙はひとりだけ祝賀に加わらなかった。なぜなら、袁渙を茂才で推薦したのは、豫州刺史だったころの劉備だったからである。他方で、魏王国の時点で新王朝に必要な人材は既に揃っていたという見方もあり、そうであるならば、たとえ革命に不満を持つ人材があったとしても、あえて審査して漢王朝への忠誠心を刺激し反感を買う必要はなかったはずである。結局のところ、この説では、九品官人法が導入された主な理由は、まさに郷挙里選とその弊害を終わらせることだったということになる[79][80]

いずれにせよ、孝廉や秀才など郷挙里選の各科目は九品官人法に吸収される形で存続し、そのための試験も行われた。しかし、これらの科目による登用は、九品で定められた家格と試験結果の不適合を避けるため試験の形骸化が進んだことや、中央の高官が保身のために地方の出身者を阻んだことなどを理由に衰退し、郷挙里選の科目が「求賢」としての役割を果たすことはなくなった[70]








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