箱根関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/26 13:42 UTC 版)
箱根関所(江戸時代)の検閲
箱根関所の検問
箱根関所の通過の際、検問するに事柄は、『諸国御関所覚書』[8]に示され、時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて、夜間通行は原則禁止された。
関西方面から江戸へ向かう者は特に検閲がなかった[9]。逆に、江戸から上方へ向かう婦女子や乱心者、手負者、囚人、首、死骸等の反乱の原因になりうるものは、留守居の証文、夜間通行には老中証文や宿場問屋の断書が必要であった[9]。道中奉行支配下の街道にあった新居関所、気賀関所、碓氷関所、福島関所などの関所の通過には、箱根関所同様に一定の証文が必要であった[9]。
入鉄炮出女
「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた[7]。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。
箱根関所の特徴は、武具の検問をしないで通行を許可しており、鉄炮手形が無い場合でも通行は差支えないが、手形持参の場合は形式上検問して通行を許可していたという[9]。『御関所御規定心得方書記』[10]によると、「鉄砲手形が無い場合でも通行は差し支えないが、手形持参の場合には、一応形式上でだけ検閲して通行を許可」するものであった。そのため、箱根関所には、差し出された鉄砲手形が残されている[11]。
関所廃止と史跡指定
関所廃止
幕末の慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた。
明治2年(1869年)には明治政府が諸国の関所を全廃した時、箱根関も廃止された。
復元と史跡指定
箱根関跡は大正11年(1922年)、国の史跡とされた[12]。昭和40年(1965年)、箱根町立箱根関所資料館が開設された。昭和58年(1983年)、静岡県韮山町(現・伊豆の国市)の江川文庫から『相州御関所御修復出来形帳』(慶応元年(1865年))が発見されたことにより[13]、箱根関所の構造が明らかとなり、後に行われる復元のきっかけとなった[13]。
平成11年から平成13年にかけて発掘調査が行われ、箱根関所の遺構が確認された[14]。
平成16年(2004年)4月、『相州御関所御修復出来形帳』の内容及び発掘調査の成果をふまえ、箱根関所の大番所や上番休息所などが復元され、一般に公開されるようになった[14]。
平成19年(2007年)、石垣等の大規模な復元工事が行われ、周辺の電線を地中に埋設するなどしたうえで、復元された箱根関所が全面公開された[13][14]。
平成25年(2013年)、資料館が13のテーマ別展示にリニューアルされた[15]。「出女改め」の人形による再現などのほか、「関所破り」のコーナーでは、当時の手配書人相書きから神奈川県警察が作成したモンタージュ写真を見ることができる[16]。
ギャラリー
注釈
- ^ 大島によると、葦川宿とは元箱根だという。(大島〈1995〉78頁)
出典
- ^ 「関所の設置」、『箱根関所公式サイト』、箱根関所・箱根関所資料館
- ^ a b 『吾妻鏡』承久3年5月19日条、『承久記』など。
- ^ 大島(1995)、76-77頁。
- ^ 大島延次郎「箱根の関所」『関所』、新人物往来社、1995年、76-77頁。
- ^ a b c d e f 大島(1995)、78頁。
- ^ 大島(1995)、78-79頁。
- ^ a b c 渡辺(1971)、21頁。
- ^ 『続々群書類従』第7 法政部 739 - 754頁所収。
- ^ a b c d 渡辺(1971)、21頁。
- ^ 小田原図書館蔵『片岡家文書』十二に拠る。
- ^ 渡辺(1971)、21・22頁。
- ^ “箱根関跡 | 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2018年5月5日閲覧。
- ^ a b c 「相州箱根御関所御修復出来形帳」(「箱根関所完全復元への道のり」、『箱根関所』公式サイト)
- ^ a b c 「箱根関跡保存整備事業」(「箱根関所完全復元への道のり」、『箱根関所』公式サイト)
- ^ 箱根関所資料館 展示リニューアル(2013/4/12 [Fri] 10:53)2019年2月16日閲覧。
- ^ 【わがまち お宝館】箱根関所資料館(神奈川・箱根町)「出女改め」禿げも詳細に『朝日新聞』朝刊2019年2月13日(第2東京面)。
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