瑞龍寺 (近江八幡市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 07:51 UTC 版)
概要
山号はなく御所号「村雲御所」を冠する。本尊は三宝尊。日蓮宗唯一の門跡寺院・本山(由緒寺院)。大本山大光山本圀寺を祖とする六条門流の主要寺院の一つで、八幡山山頂・八幡山城本丸跡にある豊臣秀次の菩提寺でもある。
歴史
智(とも)は実子のいない弟・豊臣秀吉に、長男の秀次を養子として出していた。しかし文禄4年(1595年)、秀次は秀吉と対立し蟄居先の高野山で自害してしまった。その後、秀次の妻子は三条河原で処刑され、智の夫であり秀次の実父である三好吉房も流刑となった。
唯一残された智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家し、以前から帰依していた日蓮宗による寺院を建てようとしたところ、文禄5年(1596年)、話を聞いた後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣を賜って創建された。これにより瑞龍寺は日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院及び勅願所となり別名を村雲御所と称して、以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。
江戸時代には嵯峨から西陣の堀川今出川付近の地(現:上京区村雲町。西陣織会館と西陣産業会館がある付近。)に移転する。その後、天明8年(1788年)の天明の大火により全焼するが、中興の祖・9世・日尊尼が文政7年(1824年)から28年の歳月を掛けて再建を果たした。
1961年(昭和36年)、11世・日浄尼の代に京都堀川今出川から秀次ゆかりの八幡山城の跡地に寺地を移したが、日浄尼はその完成を見ず遷化。その後、1968年(昭和43年)に晋山したのが小笠原氏出身の12世・日英尼である。家庭の不幸から出家に追い込まれた日英尼は、以後の生涯を瑞龍寺の再建に捧げた。その後を嗣いだのが、宝塚歌劇団卒業生であった桜緋紗子こと13世・日凰尼である。日凰尼は2002年(平成14年)3月20日に89歳で遷化するまで瑞龍寺の再建に寄与した。14世日澄尼・15世日英・現門跡16世詫間日郁尼(京都府南丹市長久寺より晋山。莚師法縁)は執事長職からの就任である。
境内
- 本堂
- 庫裏
- 観音堂
- 瑞光殿
- 金生稲荷神社
- 山門
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