熊野年代記
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史料批判と評価
熊野年代記は熊野史研究の基本史料としてしばしば無批判に引用される場合が少なくなかった[39]。しかし、前述のように原本が発見されていないことや、成立の経緯から、近年の研究はそうした扱いに疑問を投げかけている[40]。
3篇のうち、年代が重複する古写と第壱を比較すると、古代・中世の記述では大きな相違は認められないが、第壱の近世の記述には書写者の恣意的な解釈と思われる改変と増補が認められ、転写というよりも写本と考えられる[34]。熊野年代記には、『六国史』や有名な貴族の日記、熊野速玉大社文書などが史料として引用されており、近世中期の新宮本願の教養と文化性についての示唆が得られる[41]が、院による熊野御幸の記事に回数や院の号に誤りが多く、在地では分からないはずの進発日が記される反面で参着日が記されないなど具体性を欠き[41]、20数回に及ぶ藤原頼資の熊野詣が一度も記されていないのをはじめとして、参詣記が残されている著名な熊野詣も記述が見られない[42]。
新宮庵主の萌芽を8世紀初めに求め[43]、宇多天皇による寛平9年(897年)の勅願により霊光庵の名を賜受し、寿永元年(1182年)の後白河院による熊野御幸に庵主が供奉したといった記述も見られる[44]が、本願所の成立を8世紀に求めるのは時期としては早過ぎ、信憑性に欠ける[45]。熊野別当による熊野三山統治の終焉に関する記事でも、還俗後に名乗ったとされる姓が系譜の上で不自然であるだけでなく、終焉とされるよりも後の時代に熊野別当の職にあった人物の名が信頼できる史料中に確認されている[46]。本願が一山の造営を本務とし、経済的得分を掌握していたはずにもかかわらず、古代・中世の寄進関係の重要な事項が大幅に抜け落ちており、火災・遷宮の記事にも脱落が見られるだけでなく、有名な争乱や争論に関する記事でも、治承・寿永の乱期の熊野水軍の動向がまったく記述されておらず、中央で記録されている補陀落渡海が記されていないといったように、全体に本願としての関心事であるはずの事項が捉えられていない[42]。こうした重要記録の欠落は史料としての欠陥(非時日性・非在地性)を示している[42]。その他、古代・中世記事には伝承・怪異説話・霊験譚といった伝承群を多数含んでおり、それらは本願の縁起説話とでも言うべきものと考えられる[47]。
熊野年代記を伝えた梅本家には、他に梅本家文書と称される古文書として近世文書多数と中世文書の写し十数点が伝えられている[48]。それら中世文書のいくつかと熊野年代記の記事とは対照可能であるものの、写しの原本が不明であるため、熊野年代記記事の信頼性は限られている[49]。近世初期以降の記述には、梅本家文書と照応するものが多くあるため信頼できるものと考えられる[39]。古写の文明5年(1473年)条は霊光庵が火災に遭って全ての記録を焼失したことを伝えており、熊野年代記の記事が史料として信頼できるのは、せいぜい戦国期以降と見られる[49]。
総じて言えば、古代・中世の記述は信頼性を欠くが、近世の記述については信頼できるだけでなく[7][39]、熊野三山の包括的な編年記録として唯一のものとして史料的価値は高いと評価できるものの、他の近世史料との比較対照による近世史研究上の位置付けが必要とされている[47]。古代・中世の記事に含まれる伝承群も含め、熊野の本願の自己主張と正当化がどのように織り込まれているかを解明することも今後の課題である[47]。
- ^ 根井[2001: 110]、熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]
- ^ 根井[2001: 111-116]
- ^ 根井[2001: 111]、笠原[1989: 339]
- ^ 太田[2008]
- ^ 笠原[1989: 339]
- ^ a b 太田[2008: 171]
- ^ a b c d e f 笠原[1989: 340]
- ^ 根井[2001: 113]、小島[2008: 376-377]
- ^ a b 小島[2008: 377-379]
- ^ 梅本誠一「刊行御礼」(熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]所収)。櫃の多くが失われた水害は、梅本家には「熊野川の水害」と伝わる。しかし、この時期に梅本家が居を構えていたのは、今日の那智勝浦町下里にあたる下里村高芝の太田川河口付近で、熊野川の水害をもたらした明治22年8月の豪雨に際して太田川も氾濫しており、これによるものと考えられる[小島 2008: 378]。
- ^ 小野については次の論文が詳しい。山崎 泰「小野芳彦と『熊野史』上梓」、『国文学解釈と鑑賞』69巻3号(2004年3月、特集「続・「熊野学」へのアプローチ」)、NAID 40006096067 pp. 19-26
- ^ a b 小島[2008: 376]。小野本は現存しないため、小島は小野本からの写本である柳田本をもとに推定を行なっている[小島 2008: 376]。
- ^ 小島[2008: 375]
- ^ 小島[2008: 377、379]
- ^ a b 小島[2008: 377、379]、笠原[1989: 343](特に注8)
- ^ 小島[2008: 376-377]
- ^ 小島[2008: 379]
- ^ 小島[2008: 380]
- ^ 小島[2008:381]
- ^ 柳田 國男、1918、『熊野年代記』 〈諸國叢書35〉
- ^ 小島[2008]。ただし、根井[2001]や笠原[1989]、山本[1989]、および熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]所収の識者らの序文のいずれにも柳田写本についての言及は見られない。
- ^ 小島[2008: 383]
- ^ a b c 安藤精一「『熊野年代記』の出版」(熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]所収)
- ^ a b 根井[2001: 111]。梅本家本と各種の写本・刊本(柳田写本を除く)との関係については、根井[2001: 111]所掲の図に詳しい。
- ^ 根井[2001: 109]
- ^ 熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]
- ^ 根井[2001: 110、114]
- ^ 山本[1989: 338]
- ^ a b 笠原[1989: 339]
- ^ 根井[2001: 111]、山本[1989: 337]
- ^ 根井[2001: 111-112]、山本[1989: 337]
- ^ a b c 根井[2001: 112]
- ^ 根井[2001: 113]、山本[1989: 337]
- ^ a b 根井[2001: 113]
- ^ 根井[2001: 116]
- ^ 根井[2001: 113]、山本[1989: 338]
- ^ 根井[2001: 113-114]
- ^ 笠原[1989: 343]、小島[2008: 379]
- ^ a b c 山本[1996: 153]
- ^ その例として山本[1996]、阪本[2005]、太田[2008]など。山本[1996]は史料批判の観点から熊野年代記の史料としての信頼性を検討している。阪本[2005: 36、432]は、13世紀後期の熊野別当職断絶にかかわる熊野年代記の記述について、信頼できる多くの史料および研究成果を取り入れ記述内容の矛盾点を明らかにしている。
- ^ a b 山本[1996: 156]
- ^ a b c 山本[1996: 157]
- ^ 太田[2008: 161-162]
- ^ 根井[2001: 115]
- ^ 太田[2008: 161-164]
- ^ 阪本[2005: 432-437]
- ^ a b c 山本[1996: 160]
- ^ 山本[1996: 157]注14
- ^ a b 山本[1996: 159]
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