富貴寺 歴史

富貴寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/05 05:33 UTC 版)

歴史

富貴寺のある国東半島は、神仏習合の信仰形態を持つ宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。

富貴寺は、国東半島の他の多くの寺と同様、養老2年(718年)、仁聞の開創と伝える。仁聞はほとんど伝説中の人物で確かな事績は不明だが、国東半島の六つの郷(武蔵、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ))に28の寺院を開創し、6万9千体の仏像を造ったといわれている。国東半島一帯にある仁聞関連の寺院を総称して「六郷山」または「六郷満山」といっている。

仁王門

国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末 - 平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。仁安3年(1168年)の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28か寺のほかに37か寺の末寺があり、合計65か寺からなっていた。富貴寺はこの65か寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。

富貴寺には、久安3年(1147年)の銘のある鬼神面があり、この頃までには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司の到津(いとうづ)家に伝わる貞応2年(1223年)作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半 - 中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。

天正年間(1573年 – 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難を免れ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。

現在は大堂の隣に宿坊「旅庵蕗薹(ふきのとう)」を併設し、境内で泊まることができる[3]


  1. ^ 国東郡島原領蕗村、西国東郡田染村蕗
  2. ^ 6.「富貴寺境内」が国指定史跡に指定されました。(平成25年10月17日)。出典:新たに指定された文化財 大分県教育委員会(2021年1月11日閲覧)。
  3. ^ a b 交通アクセス 国宝富貴寺隣接 旅庵蕗薹(2021年1月11日閲覧)
  4. ^ 国宝富貴寺大堂 舞楽常行三昧(高橋文英Facebook)および富貴寺大堂舞楽常行三昧twitter)、2021年1月11日閲覧。
  5. ^ 中野幡能「宇佐宮楽所の成立とその変遷」『大分県立芸術短期大学研究紀要』第4巻(1965年)
  6. ^ 国東半島史跡めぐり 大分交通(2021年1月11日閲覧)
  7. ^ 市民乗合タクシー 昭和の町・豊後高田市公式観光サイト(2021年1月11日閲覧)






富貴寺と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富貴寺」の関連用語

富貴寺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富貴寺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの富貴寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS