堀田正英 堀田正英の概要

堀田正英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 10:16 UTC 版)

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堀田正英
時代 江戸時代前期
生誕 寛永15年(1638年
死没 貞享5年7月3日1688年7月29日
改名 虎之助(幼名)→正英
戒名 正英院殿秋巌宗岳大居士
墓所 東京都台東区西浅草日輪寺
官位 従五位下、対馬
幕府 江戸幕府 若年寄奏者番
常陸北条藩
氏族 堀田氏
父母 父:堀田正盛、母:あぐり(酒井忠勝の娘)
兄弟 正信脇坂安政正俊正英南部勝直
正室:石川正長の娘(松平康信の養女)
正親、正矩、正章、
娘(建部昌信室のち黒川盛敬室)

生涯

寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれる。寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となる。慶安4年(1651年)に父が家光に殉死すると、家督は長兄の正信が継いだが、このとき父の遺領から常陸国内で5000石を分与された。

万治2年(1659年)に中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられる。寛文11年(1671年)に書院番頭延宝4年(1676年)に大番頭と要職を歴任する。延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられ、3000石を加増された。天和元年(1681年)に若年寄に任じられ、天和2年(1682年)2月29日に5000石を加増されて合計1万3000石で大名に列し、常陸北条藩主となった。

貞享2年(1685年)に奏者番に任じられる。貞享5年(1688年)7月3日に死去した。享年51。死後、生前に幕府に提出されていた嘆願状により、遺領の1万3000石のうち、3000石は次男の正矩が、2000石は三男の正章が継いだ。しかし、長男の正親については何も記されていなかったため、残り8000石は幕府により収公され、常陸北条藩は廃藩となった。






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