四侯会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 14:25 UTC 版)
脚注
以下、引用文の旧字は新字に改めてある。
参考史料
- 『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一)
- 『続再夢紀事』(中根雪江ほか)
- 『日本歴史大系 4 近代I』(山川出版社、1987年、ISBN 4634200406)第一編「開国と幕末政治」第二章「幕末政治の展開」第三節「公武合体と尊攘運動」(執筆:大久保利謙)
- 『島津久光と明治維新 久光はなぜ、討幕を決意したか』(芳即正、吉川弘文館、2002年、ISBN 4404029950)
- 『幕末ニュース』(監修 加来耕三・原口泉) 南日本放送
関連項目
- ^ 『徳川慶喜公伝』第二十四章「兵庫開港の勅許」。
- ^ 当時朝廷では王政復古派の擡頭に伴い、公武合体派の議奏である広橋胤保(権大納言)・六条有容(中納言)・久世通煕(前参議)および武家伝奏野宮定功が解任されていた(『徳川慶喜公伝』第二十四章)。
- ^ 『続再夢紀事』巻二十一 慶応三年五月十日条。
- ^ この久光の主張は大久保利通の画策によるものであった(『大久保利通日記』慶応三年五月十四日条)。
- ^ この朝議の列席者は以下の通り。朝廷側:摂政二条斉敬、尹宮朝彦親王、山階宮晃親王、前関白鷹司輔煕、内大臣近衛忠房、権大納言一条実良、同九条道孝、同鷹司輔政、議奏正親町三条実愛、長谷信篤、幕府側:将軍徳川慶喜、京都所司代松平定敬(桑名藩主)、老中板倉勝静、同稲葉正邦、若年寄大河内正質(大多喜藩主)、松平春嶽、伊達宗城など(『続再夢紀事』巻二十一 慶応三年五月廿三日条)。
- ^ 『徳川慶喜公伝』第二十四章「議論容易に纏まらねば、一旦休息することとなれるが、休息中、公(慶喜)は大蔵大輔(春嶽)を召して雑談の序に、「今日奏上の事は、仮令幾昼夜に渉るとも、決定せざる間は退朝せざる決心なり、然らざれば間言必ず行はれん、されど斯くまでに決心せることは、伊賀(板倉勝静)にも未だ申聞けず」と仰せられしとぞ」
- ^ 『続再夢紀事』巻二十一 慶応三年五月十日条「鷹司大納言殿席を進めて殿下(二条)には幕府より申立たる長防を寛大に処し兵庫を開港すべしとの趣意を御同意に思召さるゝやと申され(中略)大納言殿 叡慮これを可とせられ殿下にも拠なき事に思召さるゝ上ハ速に降命ありて然るべし。堂上の紛議を憚らるゝにやとも伺ハるれども是らハ畢竟取るに足らざるなり。大樹公(慶喜)の是非今日降命ある様にと願はるゝは必ず事機の止を得ざる所あるなるべし。然るを其願を納れられずハ因循となり夫か為め大樹公若職掌を勤めかぬればとて辞職ともなりなば天下は直ちに動乱に及ぶべく 朝廷も恐ながら今日限りと存ずるなりと申されし」。
- ^ この結果について大久保は憤慨し「大樹公摂政殿始之暴を以奉迫、御微力の朝廷不被為止」(『大久保利通日記』五月二十四日条)と記している。
- ^ たとえば『大久保利通文書』蓑田伝兵衛(薩摩藩家老)宛大久保一蔵書簡「此上は兵力を備へ声援を張御決策之色を被顕朝廷に御尽し無御座候而は中々動き相付兼候」。
- 四侯会議のページへのリンク