和珥氏 出自

和珥氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 00:42 UTC 版)

出自

記紀」などに記された出自伝承によれば、和珥氏族は孝昭天皇皇子天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たとされる。

歴史

勢力範囲

和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った[1]。その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡で、後漢中平年間(184年 - 189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されている[2]。年代や規模の観点から、最初期の東大寺山古墳彦国葺命の、赤土山古墳が大口納命の墓と推定されるが、和邇下神社古墳は規模から見て武振熊命の墓とは考え難いと指摘されている[3]

全盛期

和珥氏は大和朝廷の外征に参軍し軍事的な業績を上げたと『播磨国風土記』や『新撰姓氏録』から推定されている[4]。記紀記述の内で、史実性の高い天皇葛城氏が后妃を出したころ和珥氏一族が孝安天皇開化天皇に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの天皇に11人の后妃を出し、勢力を広げた[5]6世紀頃に春日氏小野朝臣粟田朝臣、柿本朝臣、大宅真人、櫟井朝臣など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓すると見る説がある[6]

春日氏の衰退

春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、他の分岐した小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などが、各方面で活躍する[7]

枝氏

記紀の伝承


  1. ^ 岸 1964, pp. 42–47.
  2. ^ 岸 1964, p. 76.
  3. ^ 宝賀 2012, p. 66 - 68.
  4. ^ 岸 1964, pp. 35 - 39、86 - 87.
  5. ^ 岸 1964, pp. 20–23.
  6. ^ 岸 1964, p. 51、出典は関晃書評「律令国家の基礎構造」『歴史学研究』254号 1961年(昭和36年)
  7. ^ 岸 1964, pp. 22 - 23、50 - 60、87 - 88.
  8. ^ 一云 磯城縣主葉江女渟名城津媛 一云 倭國豊秋狭太媛女大井媛也(孝昭紀29年)
  9. ^ 応神紀2年。ただし先代旧事本紀菟道稚郎子の母を物部多遅摩連の女の山無媛ともする
  10. ^ 岸 1964, pp. 60–66.


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