加子母村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 04:08 UTC 版)
歴史
- 平安時代 小郷・小和知に家や田畑ができ始め、小郷に大杉地蔵がまつられる。
- 鎌倉時代初期 源頼朝の命により文覚上人帳(永雅上人との説もある)が飛騨側の御厩野[1] に天台宗の鳳慈尾山大威徳寺を建立し、その中の多聞坊が小郷の舞台峠下にあった。小郷・小和知は、大威徳寺の領域として飛騨国益田郡に属していた。
- 永正元年(1504年)7月 飛騨国の豪族三木重頼が木曽氏攻略の際に数百の兵とともに白巣峠(加子母と木曽郡王滝村の境)を越えた。
- 永禄12年(1569年)苗木城主の遠山直廉が三木顕綱攻略のため飛騨の竹原へ侵攻した際、三木氏が立て籠もっていた大威徳寺を焼く。(大威徳寺の戦い)。
- 天正13年(1585年)天正地震が発生。大威徳寺が壊滅する。
- 天正17年(1589年)太閤検地により、加子母村は1,189石5升とされた。
- 江戸時代 は尾張藩領となる。
- 元和元年(1615年)の「美濃国之内郷帳」に加茂郡加志母村、元和二年(1616年)の「美濃国村高御領地改帳」にも加茂郡加志母村の記述がある。恵那郡沿革考の一「加子母村の往古」に加子母は元は加茂郡なりと、然れども確証を得ず。との記述がある。
- 享保11年(1726年)尾張藩が二渡と小郷に材木の搬出管理を目的として抜荷守番所を設置。
- 享和元年(1801年)安江三左衛門等の施工により加子母用水が竣成。
- 享和3年(1803年)梅田新兵衛の発起により神林用水が竣成。井上舊用水も梅田新兵衛の発起である。
- 良平薙の開拓は伊東良平の事業である。渡合山中を開拓した。
- 明治6年(1873年)に「五木伐採の禁」を解かれ、地元に山林が譲渡される[2]。
- 明治22年(1889年)に初代村長となった内木又六は、村有林となった山林の半分を村民に均等に分け、「植林して家産として立派な山林に育てよ」と指導し、一筆(一区画)を千坪として、「家の大事にはこれを売ってしのぎ、家運がもどったら買い戻せ」と教えたという。
沿革
- 1889年(明治22年) - 町村制施行によって恵那郡加子母村が発足。
- 2001年(平成13年)10月 - 環境省によって「加子母村の檜とササユリ」がかおり風景100選に選定される。
- 2005年(平成17年) - 加子母村が中津川市に編入される。同日加子母村廃止。
- ^ (現・下呂市御厩野)
- ^ 必要時に必要分を切る 朝日新聞、ぐるり東海(4)【加子母通信】、2017年06月02日
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