仁徳天皇 事績

仁徳天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 03:27 UTC 版)

事績

即位

応神天皇40年1月8日、父・誉田天皇から兄・大山守命と共に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。

翌年の応神天皇41年2月、誉田天皇が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので皇位の譲り合いとなった。これが三年続き、貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。

聖帝の治世

「仁徳天皇」松岡寿

即位元年1月3日、都を大伴氏などが本拠を置いていた難波の上町台地、難波高津宮に遷した。

即位4年、天皇が高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知った。そこで以後三年間、課税と労役を全てとりやめることにした。そして自らは、宮の屋根が壊れ雨漏りしても直すこともしなかった。

即位7年、三年が経過して再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていた。諸国は課税再開を要請したが、結局即位10年まで課税停止は延長された。

その後は河内平野一帯で大規模な治水工事を行った。日本書紀には、次の事績が記されている。

  1. 河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。
  2. 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
  3. 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
  4. 和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。
  5. 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
  6. 紀角宿禰百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。
  7. 紀角宿禰に無礼を働いたとして百済から日本に送られた酒君鷹狩を始めさせた。
  8. 朝貢を拒否した新羅に上毛野竹葉瀬田道の兄弟を派遣して討伐した
  9. 呉(南朝宋)と高麗(高句麗)が朝貢してきた。

また、古事記には、次のとおり記されている。

この天皇の御世に、大后おほきさき石之日売命の御名代みなしろとして、葛城部を定め、また太子ひつぎのみこ伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部たぢひべを定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。 また、秦人をえだちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池わこのいけ依網よさみ池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江をばしのえを掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。

皇后の嫉妬

即位2年3月、葛城襲津彦の娘で武内宿禰の孫にあたる葛城磐之媛を皇后とした。難波を拠点とする天皇にとって、大和を押さえる葛城氏は重要な同盟者だった。磐之媛は去来穂別尊・瑞歯別尊・雄朝津間稚子宿禰尊を生み、それぞれが履中天皇反正天皇允恭天皇となった。以降、葛城氏は皇室の外戚として政権内で強大な権力を握った。しかし仁徳天皇は他にも多くの妃を持っていた。なおかつ皇后の磐之媛命は嫉妬深い人物だったため、女性関係に悩むことになった。『古事記』によると黒日売という美人が妃として宮中に召されたが、皇后の嫉妬を受け実家の吉備に逃げ帰ったという。

即位16年、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが皇后の嫉妬が強くて召し上げられず嘆いた。

即位22年、今度は異母妹の八田皇女を妃にしようとしたが、またしても皇后の反対でかなわなかった。8年後の9月、皇后が宴のための御綱柏を取りに木国へ出かけた隙をついて天皇はついに八田皇女とまぐわってしまった。帰路、このことを伝え聞いた皇后は捕った葉を全て捨てた。そうとは知らない天皇は皇后を迎えに港まで行って歌を詠んだ。

難波人 鈴船取らせ 腰なづみ 其の船取らせ 大御船取れ

しかし皇后の船は港を素通りした。皇后はそのまま川を遡り山背を通って実家の葛城に帰ってしまった。そこで天皇は家臣に歌を託して皇后の機嫌を取ろうとした

山背に いしけ鳥山 いしけいしけ 我が思う妻に いしき会はむかも

皇后の心は変わらず、ついには山背の筒城岡に宮を築いて引きこもってしまった。天皇は口持臣(的臣の祖)を遣わしたが皇后は無視した。11月、ついに天皇は山背に行幸。道中で川の水に流れる桑の枝を見て、歌を詠んだ。

つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木 寄るましじき 川の隈々 寄よろほひ行くかも 末桑の木

そして筒城宮の前につくと皇后に向かって歌を詠んだ

つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す やが栄えなす 来入り参来れ
つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕 枕かずけばこそ 知らずとも言はめ

それでも皇后の怒りは解けず別居状態が続いた。

即位31年1月、皇后との間に生まれた長男の去来穂別皇子を太子とした。

即位35年、皇后が5年間の別居の末に筒城宮で崩御。二年後、皇后を乃羅山に葬った。

即位38年、八田皇女を立后。

即位40年、妃として望まれた雌鳥皇女は天皇を拒絶し、使者として遣わされた隼別皇子と結婚してしまった。私事を国事に及ぼさぬよう一度は黙認した天皇だったが、増長した二人は反逆を企てるにまで至ったため激怒して誅殺した。

即位87年、崩御。「八十七年の春正月の戊子のついたち癸卯に、天皇、かむあがりましぬ」(『日本書紀』)。「この天皇の御年、八十三歳やそじまりみとせ。分注-丁卯の年の八月十五日にかむあがりましき」(『古事記』)。


  1. ^ 『古事記』大安万侶。 
  2. ^ a b 小沢一雅「古事記崩年干支に関する数理的検討」『情報処理学会研究報告』2010年度第2号、情報処理学会、2010年8月、1-6頁、CRID 1520572359470131072ISSN 18840930NAID 1100080034882023年10月30日閲覧 
  3. ^ 松原聡『日本の経済』ナツメ社図解雑学シリーズ〉、2000年、228頁。 
  4. ^ 『日本書紀 二』岩波書店岩波文庫〉、1994年。ISBN 9784003000427 
  5. ^ 『日本神話と古代国家』講談社学術文庫、1990年、29頁。ISBN 978-4061589285 
  6. ^ 日本書紀と古墳時代の考古学
  7. ^ (産経ニュース 高津宮は大阪城本丸地区に 仁徳天皇が朝鮮半島情勢に対処か 2024/1/10)
  8. ^ 大阪の仁徳天皇陵古墳は日本一|世界遺産のおすすめの古墳めぐりコースは? 2023年7月26日






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